奈 良 百 遊 山プラス10


 「奈良百遊山」は平成15年、奈良県健康増進課が選定したものです。難度別にABCの3ランク、また地域別に「大和平野」「金剛・葛城」「宇陀高原」「台高山系」「大峰山系」「周遊吉野」の6エリアに分類されています。
 別のページ「奈良百遊山」をUPするにあたり、私たちはリストに上っていて自分たちがそれまで登っていなかった山へも登ってみました。しかし、中にはなぜ選定の対象となったのか首を傾げるような山もありました。おそらく選定にあたって、県が地域的なバランスをとるために考慮されたものと考えます。
 そのため「大和三山」の畝傍、耳成、天香久山は別々の山として紹介されています。しかし八経ヶ岳はリストアップされているのに、弥山は100山に含まれていません。また難度のバランスをとるためか、大峰、大台山系のリストが(私には)不十分と思えます。
 特に歴史的にも重要で、奈良県を代表する「山上ヶ岳」がリストから漏れているのはうなずけません。これは、おそらく「男女平等」の観点から女人禁制の山を、県としては記載できなかったものと考えられます。
 奈良には他にもいい山、他府県の方にぜひ紹介したい山が、それこそ山ほどあります。ここでは、あえて10山に絞って、私の独断と偏見で順不同で選んでみました。「山名辞典」的な紹介に加え、私たちの山行を写真とともにレポートしています。
 ただし、かなり古い記録もあります。登山道の状況は年々変化していますので、参考にしていただくときは十分にご留意ください。

参考文献: 各市町村史、『和州吉野郡群山記』、奈良山岳会編『大和青垣の山々』、森澤義信『奈良80山』、日本山岳会編『新日本山岳誌』、など多くの著作を参考にさせていただきました。 


101 山上ヶ岳 (1,719m)

(さんじょうがたけ)吉野郡天川村。別名・大峰山、金峰山。大峰山脈の主峰。広義の大峰山は吉野山から山上ヶ岳を経て弥山付近までをいうが、狭義にはこの山を指す。役行者が開いたとされる西日本修験道の根本道場で、     今なお「女人禁制」を守り続けている。女人禁制の結界は、吉野側では吉野金峰神社から500m南の大滝への降り口にあるが、現在は五番関まで通行できる。
 山頂にある大峰山寺の本尊・金剛蔵王権現は役行者が感得したと伝えられるが、空海も金峰山(吉野山)から高野山へ修行をしている。古くから神道と仏教の混淆した民俗信仰から発展したとみられる修験道の実際の開祖は理源大師・聖宝であり、当初は真言宗(当山派)が勢力を持っていた。 しかし、平安時代中期以降、朝廷の熊野信仰が盛んになるにつれて熊野から大峰山への修験道が開かれ、天台宗系の本山派が勢力を持つようになった。そのため、熊野から大峰山を経て吉野に至る修行の道筋・奥駆道を「順峰」、吉野から熊野への順路を「逆峰」と呼ぶ。
 山頂・大峰山寺周辺には表行場・裏行場と呼ばれる合わせて18の行場があり、また奥駆道には1番の熊野本宮から75番の「柳の渡し」に至る、75の「靡(なびき)」という拝所・行場が設けられている。関西の若者にとっては「サンジョウサン詣り」は昭和になっても>成人式を兼ねた重要な行事であり、 私の住んでいた河内でも青年団の先輩などから「西の覗き」での修行の様子や下山時の「精進上げ」の話などを聞かされたものである。
 登山対象としての山上ヶ岳は、大峰山寺本堂近くの湧出岩の横に一等三角点(1719m)を持つことでも分かるように展望にも優れた山である。本堂横のお花畑からは大普賢、弥山、稲村ヶ岳などの大峰の山々を望むことができる。主な登山道には吉野道、洞川道、柏木道の三つがあるが、「柳の渡し」(近鉄吉野線六田近く)を起点とする吉野道は距離が長いので、吉野郡天川村洞川からの洞川道が最もよく使われている(約2時間)。柏木から伯母谷覗き、阿弥陀森、小笹の宿を経て山上に至る柏木道(約5時間)も、かっては良く利用されていたと聞くが私は歩いていない。
ここでは洞川道から山上ヶ岳と、吉野道途中からの奥駆道の山行をレポートする。



102 頂 仙 岳 (1717.4m)  
(ちょうせんだけ)昔、仙人が住んでいたといい、昭和初期からこのように書く。古くは朝鮮岳。『興地通志』『大和名所図会』『大和志』に「朝鮮嶽、在稲村嶽西南、山脈相連、喬木陰森、怪石奇争聳、早旦望之、山色鮮明」とある。朝早く山が鮮やかに見える、という意味で朝鮮岳と名づけられたようである。 畏友・森沢義信氏の「奈良 80山」によれば「弥山から出発することを弥山駈出という」。現在のように弥山から八経ヶ岳へ直接登る道が開かれたのは明治になってからで*、それまで「山伏は午前4時に駈出し、弥山から狼平に下って頂仙岳に登り、次の古今宿を経て八経ヶ岳へのぼったという」(前掲書) *「大峰山の霊蹟に就て」 宮城信雅 「修験」(大正15年)によると、「以前は八経へ登らず、朝鮮ヶ嶽に回り、八経の横を迂回して明星嶽に出たが、明治十九年楠本真成行者が、八経頂上へ直行する道を発見したとの事である」。 「修験」は京都の聖護院門跡の機関誌で、宮城信雅師は当時の執事長であったと思う。(前掲書の著者森沢義信氏のご教示による。)現在の奥駆修験者の殆どは弥山より直接、八経ヶ岳へと辿り、頂仙山は遥拝するだけである。
 2004年10 月、森沢氏の案内で日本山岳会の有志3人と私たち夫婦の5人パーティで大峰に入り、前日は弥山小屋で一泊ののち、上記の「弥山駆出」コースを歩いた。
 なお、直接この山に登るには、天川村川合から栃尾辻をへて山頂まで約3時間50分である。2008年8月、弥山でのオオヤマレンゲ観察会の帰途、明星ヶ岳からこのルートを下っている。




103 三津河落岳 (1,654m)

(さんづこおちざん)南東の主峰・日出ヶ岳、北西にある経ヶ峰(1,529m)とともに総称して大台ヶ原山と言われることが多く、日本山岳会編「新日本山岳誌」でもこの立場をとっている。しかし県福祉課選出「奈良百遊山」では日出ヶ岳を単独の山として挙げている。ここではそれに倣い、また三省堂刊「コンサイス日本山名辞典」の国土地理院20万分の一図記載の山名でもあるので別に一項を立てた。三津河落と言われる山だけでも範囲は広く、上記の標高はうちの一つのピーク・如来月(にょらいづき)のものである。
 三津河落の名は紀ノ川(吉野川)、熊野川(北山川)、宮川(大杉谷)の水源として、その分水嶺となっていることからきている。和州吉野郡群山記には「三途川落」と表され、「大台一の高山なり」と記されている。日出ヶ岳から見ても標高で50mしか違わない、堂々とした姿の山である。またこの山には如来月(吉野郡群山記では「如来附(にょらいふ)、三途に附きし故、如来附といふ」)の他、日本鼻(1,640m)、大和岳(1,597m)という雄大な名前を持つ山が含まれているのも面白い。確かに大和岳の頂上からは、大峰山脈の殆どの山々を見晴らす大展望を得ることができる。
 A.如来月と名古屋岳 B.三津河落山~大和岳 C.日出ヶ岳~巴岳 の三項に分けて、この山を紹介しているが、2012年現在、環境保全のために登山道が閉鎖されている箇所があるので、入山には注意が必要である。



104 勝負塚山 (1,246m)

(しょうぶつかやま)上多古谷の上にそびえる大峯の前衛峰。吉野郡川上村と天川村の境に位置し、点名・鳴川山の三等三角点を持つ。
 吉野川の支流・上多古谷を隔てて山上ヶ岳と対峙しているので、頂上からは山上ヶ岳の宿坊が望見され、大峰奥駆道・今宿茶屋跡への踏み跡が続いている。山名は、元は「しょうほうつか」で理源大師聖宝が毒蛇や獣をここに閉じ込めたのが由来という(同じ伝説は吉野の百貝山にもある)。
 また、この山を巡っては、昔、川上村と天川村の間で30年に及ぶ境界争いがあったと言われ、このことが山名に関わりがあるのかも知れない。
【登路】国道169号線上多古から上多古林道に入り、伊坪谷出合から登るのが一般的である。
 
2008年7月の山行記



105 大所山 (1,346m)
(おおどころやま)  別称・百合ヶ岳。大峰奥駈道の五番関と今宿跡の間から東へ派生する支尾根の末端にある。吉野川支流の下多古川と高原川と挟まれるが、下多古側は植林だが高原側は深い自然林が残っている。三等三角点の山頂付近もブナの自然林の中で、冬の落葉期には高原山、四寸岩山、大天井岳、山上ヶ岳…と展望が得られる。初夏のころはヤマザクラ、ミツバツツジなどが新緑に彩りを添える。南側の下多古谷は弁天岩から琵琶滝、中ノ滝と素晴らしい渓谷美を見せる。
 琵琶の滝より急な坂道を徒歩30分ほど上ると、吉野林業の歴史を伝えるために川上村が保存している「下多古村有林」がある。江戸時代に植林された人工林として全国的にも最も古い部類に入る。樹齢280年~380年の杉や桧が林立して、最大の杉は幹回り5mを越し、高さ約50mにも達している。(川上村HPによる)
【登路】一般的な登山路は川上村下多古より下多古林道に入り、徒歩1時間で登山口。車の場合は登山口まで進入できる。五番関からの道は、迷いやすい上にブッシュが多く大峰の山熟練者向きと聞く。
2009年5月と2004年2月の山行記


106 馬ノ鞍峰(1,178m)
(うまのくらみね)台高山脈の名称は北の高見山と南の大台ケ原山から取ったものである。奈良・三重両県境となっているこの長大な山脈主稜のうち、北半分の高見山から池小屋山までは良く歩かれているが、池小屋山から大台ケ原山への南半分は原生林と密生した笹薮が続き、道は踏み跡程度しかなく山小屋や避難小屋もないので、縦走する人は少ない。この稜線は池小屋山から弥次平峰、馬ノ鞍峰、山ノ神ノ頭、父ヶ谷高、添谷山などのいくつかのピークを連ねて大台辻に至る。いずれも深山幽谷で安易に踏み入るのは難しいが、その中で馬ノ鞍峰は私たちにも取り付きやすい山である。 【登路】入之波温泉を過ぎて三之公林道終点まで車が入れる。そこから落差40mの明神滝を経て、南朝の遺跡・カクレ平までは整備された歩きやすい遊歩道である。そこから山腹に付けられた道に入るが、赤テープなどの目印があり迷うことはない。 2007年の山行記



107 蛇崩山(1,172m)
(だぐえやま)笠捨山から奥駆道の通る大峰山脈主稜と別れ、南に延びて瀞八丁で名高い北山峡に終わる長大な支稜の上にある。途中の「熊谷ノ頭」からは奈良県では珍しいカラマツ林が続く。名前の由来は知らないが、1974年冬、この山へウサギ狩りに行った人が体長1mほどの灰色のオオカミらしい後ろ姿を目撃したという話があるほどの、奥深い山である。 
【登路】国道168号線を十津川村へ南下し、村役場を過ぎて425号線へ入る。森林植物公園手前から葛川隧道を抜けて上葛川に行くと登山口がある。ここから笠捨山への道は江戸時代には奥駆道の一部として使われていた道である(詳しくは別項の山行記参照)。
2006年11月、「紀伊山地の参詣道を歩く」シリーズの一環として、玉置山、宝冠の森を訪ねて上葛川で一泊。翌日この「江戸道」を熊谷ノ頭へ登り、蛇崩山を往復。笠捨山から地蔵岳分岐まで現在の奥駆道の通る大峰主稜を歩いて上葛川に下山した。その時の山行をレポートする。




108 戒 場 山(738m)
(かいばやま)
奈良県宇陀郡室生村と榛原町との境、額井岳の北東に連なる山である。山名の由来は、字義から「仏教の戒律を守るところ」とか、読みから「家畜の飼料を取った所、飼い場」ともいわれている。南山麓に戒長寺がある。寺伝では用明天皇の勅願による聖徳太子の建立で、空海も修行した寺という。質素なたたずまいだが、境内のお葉付きイチョウと十二神将を鋳出した重要文化財の梵鐘で有名である。また隣接する戒場神社にはホオノキの巨樹がある。戒長寺から額井岳の麓を通る東海自然歩道わきに、山部赤人墓と伝えられる五輪塔がある。この辺りを山辺三というので、それから生まれた伝承とも考えられる。
【登路】 榛原町山辺三の葛神社横に登山口がある。戒長寺まで約2km。戒長寺境内を通り抜けた右手から山道になる。クマザサの中を登ると稜線の小さいコルに出て、左に行くと寺から40分程で山頂に着く。樹木に囲まれた平坦地で展望はない。別に、山部赤人墓から北へ登ると、奈良市都祁小川口に通じる戒場峠がある。ここから左(西)に行けば額井岳、右すれば戒場山である。峠から約30分で山頂。
 私たちはいつも秋の紅葉の時期に、隣りの額井岳から稜線を辿っている。一番新しい2008年の山行を記す。


   
109 日 張 山 (595.1m)
(ひばりやま)奈良県宇陀郡菟田野町にある低山である。登山の対象とするにはあまり興味が湧かないが、日本山岳会編「新日本山岳誌」に選ばれている。この地方では中将姫伝説でよく知られた山である。
 『大和名所図会』に「日張山また鶬山と書す。宇賀志村にあり。山中に青蓮尼寺あり。鶬雲庵は中将姫法如尼の閉籠の地なり」とある。継母によりこの山に捨てられた中将姫は、嘉藤太に助けられてこの寺で念仏三昧の生活を送っていた。狩りに来た父藤原豊成に対面し奈良に帰った後、再び出家して当麻寺に入り、蓮葉の糸で当麻曼陀羅を編み上げた。のちに19歳でまたこの地に帰り、青蓮尼寺に自分と恩人・嘉藤太の像を刻んで安置したという。
現存の青蓮寺の開創などは詳びらかでなく、「ひばり山」は「火祝り山」が語源とする説もある。
登路】 菟田野町宇賀志から宇賀志川に沿って上流に向かう。源流の無常橋を渡り、つづら折りの道を登ると、中将姫の歌碑を過ぎて青蓮寺に着く。宇賀志から約4km、1時間。墓地の横から山道に入り20分で頂上三角点。樹木の中で展望はない。山行記は2008年5月のものである。



110 外 鎌 山 (292.5m)

(とかまやま)現在の地番では桜井市慈恩寺であるが、昔は城上郡忍坂(オサカ→オッサカ)と呼ばれた地にある。近鉄長谷寺駅から一駅大阪寄りの大和朝倉駅南東にある低山で、ここも登山の対象にするのは少し気が引けるが、重要な「歴史の山」として是非、紹介しておきたい。
 万葉集では「忍坂のやま」と歌われ、朝倉富士、磯城富士とも呼ばれてきた形のよい山である。しかし、最近は周囲の開発が進んで住宅地がすぐ近くまで迫り、往時の姿を想像するのが難しくなった。万葉集巻十三-3331に
 隠口(こもれく)FONT の 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走出の 宜しき山の 出立の 妙(くは)しき山ぞ 惜(あたら)しき山の 荒れまく惜しも
の歌がある。当時もより古い時代よりは自然環境が悪化していたようで、奇しくも現代の私たちの嘆きと同じように思えて興味深い。
 南側山麓には舒明天皇忍坂内陵、鏡王女墓、欽明天皇皇女大友皇女墓と三つの陵墓が並んでいる。「忍坂三墓」と呼ばれるところだが、ここも寂れて荒れた感じである。少し南の石位寺は白鳳時代の三尊石仏をまつるが、この石仏は鏡女王の念持物だったともいわれる。また、この寺に落ちた雷を天神が捕え、気に縛り付けたので、以後この地に雷は落ちないという伝承もある。
 2001年、南側から道を探りつつこの山に登った。現在はネットなどで見ると、駅から見える桜井市の外鎌山配水池のタンク横から尾根を辿る道がよく使われているようである。 2001年の山行記




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