109 日 張 山



【日 時】2008年5月30日(金) 【メンバー】芳村嘉一郎、和子

【コースタイム】青蓮寺駐車場10:05…青蓮寺10:10〜10:20…日張山(595.1m)10:40〜10:50…青蓮寺11:15〜11:20 …駐車場11:25

梅雨入りも間近、宇陀にある二つの山に登る。まず日張山へ。国道166号線宇賀志から山に向かって3.5キロ走った青蓮寺駐車場に車を置く。向い側の手水場横の地蔵さんには、紫と白のホタルブクロが供えてあった。途中に「なかなかに山のおくこそすみよけれ くさ木は人のさかを言わねば」の中将姫歌碑を見て、折れ曲がった階段状の道を数分登ると山門の前に出る。山門前には謡曲史跡保存会の『謡曲「雲雀山」と青蓮寺』の説明立札があった。曰く
『謡曲「雲雀山」は中将姫伝説などを典拠にして脚色したといわれ、藤原豊成の息女中将姫が継母のため雲雀山に捨てられたうえ殺されようとしますが、主命を受けた家来はひそかに姫をかくまい、乳母の侍従も内職をしながら姫を養っていましたが、はからずも狩りに来た豊成が、その事情を知り、わが姫に与えた非情の行いを悔い、我が家に伴い帰るという物語になっています。この曲の舞台となっているのが青蓮寺といい、山号になっている日張山は古来、狩場としても知られ、中将姫はこの辺でかくまわれていたと伝えています。なお、藤原豊成は藤原武智磨の息男で横佩の右大臣と呼ばれ、邸宅は奈良市元興寺東南付近にあった由です。』

山門をくぐると、長い石段の両脇に深紅のシャクナゲと白いマーガレットの花が並んでいる。
石段の上にいた人懐っこい犬が駆け降りてきて、1986年以来22年振りに訪れた私たちを歓迎してくれた。
広い境内には諸堂が立ち並び、
開山堂には中将姫が納めた姫自身や、姫を助けた嘉藤太夫妻の像が安置されている
日張山へは嘉藤太夫妻墓の横から薄暗い杉林に入っていく。寺の裏側を回り込むように登っていくと白いテープを張った松林から、明るい雑木林の尾根道になる。昔の山日記では展望がよいこの場所で昼食をとっているが、今は樹木が生い茂り、わずかに一ヵ所で金剛山らしい山が木の間から見えるだけ。
 小さな祠がある所で左からの道が合流すると、ひと登りで山頂に着いた。
595.1m三角点があるが、林の中でまったくの無展望である。
写真だけを撮って元の道を下る。
 青蓮寺の開山堂横には、紅白のサクラソウやオダマキの花が咲いていた。犬の姿は見えなかったが、シャクナゲの花に見送られて青蓮寺を後に次の目的地…というか今日のメインの伊那佐山に向かう。
中将姫遺跡・ひばりやま青蓮寺略記(鐘楼横の立札による)

『奈良朝天平宝宇四年(七六〇年)、右大臣藤原豊成(ふじわらとよなり)公の息女中将姫は、継母のざん言により十四歳のときここ日張山に配流されたが、その家臣、松井嘉籐太春時と妻静野の情けによって危うきを助けられ、ここに草庵を結び、

なかなかに山の奥こそ住みよけれ 草木は人のさがをいわねば
と閑居練業、二年六ヶ月の間、念仏三昧の日々をおくられた。そのうち父君(豊成公)が、この地に狩りに来られ中将姫と不思議な再会を得て、奈良の都に帰られたが、菩提の志止みがたく、ついに当麻寺に入り出家剃髪の身となり、「法如尼」と名のられた。

その後、当麻曼陀羅を感得され、十九歳の夏、再びこの山に登り一宇の堂を建立して自らの影像と嘉藤太夫婦の形像を手づから刻み安置して、ひばり山青蓮寺と名づけ、永く尼主の道場とされた由緒ある山寺である。
以来、千二百年の星霜を経て、幾多の変遷まぬがれず、現今の堂宇は天明四年の火災につぎ文化十二年の水害の後、弘化四年に建立せられたものである。数々の遺物と、嶺の松風、谷の清流は昔ながらに中将姫にまつわる哀れにもゆかしい物語りを伝えて今日に至っている。』

 「奈良100遊山プラス10」    ペンギン夫婦お山歩日記
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