五番関〜山上ヶ岳〜大普賢岳


(奥駆道 3)





奥駈山行第三回目は、靡六九番の五番関から六二番の笙ノ窟まで、修験道の聖地として今なお女人禁制を守る山上ヶ岳を経て、特異な山容で遠くからも識別される大普賢岳に至る、歴史と伝統の重さを感じながらの20qに及ぶ行程である。

【登 山 日】2004年6月12 日(土) 
【メンバー】JAC関西支部(L森沢義信、他7名)(会員外)8名  計16名
【コースタイム】五番関トンネル入口09:20…69五番関09:35〜09:40…寺及坂09:50…鍋冠行者10:10…今宿茶屋跡10:30…餓え坂を登り終える11:10〜11:15…68淨心門(洞辻茶屋)11:18〜11:25…西ノ覗12:00〜12:10…67山上ヶ岳(大峰山寺本堂)12:20〜13:00…投げ地蔵13:20…66小篠宿13:30〜13:35…65阿弥陀ヶ森14:15〜14:25…64脇ノ宿14:35…小普賢岳15:25…63大普賢岳15:40〜15:50…62笙ノ窟16:50〜17:0…和佐又ヒュッテ17:40
梅雨時に加え台風が早足で駆け抜けて、やきもきさせられた一夜が明けた。家を出るときはまだ小雨が落ちていたが、マイクロバスが洞川に近づく頃には、雲の切れ目に青空も覗くようになった。しかし、まだ峰の稜線は雲の冠を被っている。五番関トンネル入口でスパッツを付けるなど身支度を整え、今日のコースの概略と注意を森沢さんからお聞きして出発する。五番関に登る沢沿いの急坂は湿度が高く、短い時間でかなり汗をかいてしまった。大天井岳からきた吉野古道は、ここ五番関の女人結界の門を潜って稜線の左(東)側を捲いていく。殆どの人がこちらを通るようだが、私たちは門の右横から忠実に尾根通しに登る古道を行く。すぐ昔の蛇腹坂(寺及坂)にかかる。しばらく登って道が平坦になると、新道と合流して鍋冠行者堂に着く。大きな鉄鍋と百五十五丁石がある。霧が湧いてきて幻想的な雰囲気となった笹原を行く。現在の蛇腹坂に来て、ロープが下がっている急な岩場を通過する。飢え坂ともいうそうだが、ここまで来ると朝早かったので少し空腹を覚える。
登り切ったところで小憩し、洞辻茶屋に下る。ヒメジヨンの白い花の中に「吉野百八十丁、洞川八十丁」の石標が立っていた。洞川道を登ってくる行者の「六根清浄」の声が聞こえ、遠く法螺貝の音も響く。道を覆って建つ茶屋を抜けると青銅製の出迎え不動があり、ここが靡六八番淨心門で大峰行場の始まりである。ここから平坦な道を少し行くと陀羅尼助小屋の中を抜ける。この先で2002年に完成した新道(主に下山道として使われている)を右に分けて油こぼしを登る。滑りやすい一枚岩だが、今は木の階段が設けられている。可愛いヒメレンゲの花が道脇を黄色に染めている。ついで鎖を伝って小鐘掛の行場を登る。その先に桟敷のような見晴台があり、頭上に聳える大岩が鐘掛岩である。昨夏は足場を教えられながらここを登ったが、今回は右手の捲き道を行く。
やや下り気味に少し進むと先の新道と合流し、たくさんの参詣者、登山者が行き交っている。下りてくる人が次々と「ようお詣り」と声をかけてくれる。ついで鎖で囲まれた「お亀石」の横を通るが、この岩根は熊野まで続くといわれている。三番目の修行門、等覚門からは右手の山裾を捲くように行く。鞍部から少し登ると有名な「西の覗き」である。今まで最後尾を歩いていたが、鐘掛岩の上部でいつの間にか私を含めて数名だけが逆に先に行く形になり、ここで本隊を待つことにする。「覗きの修行はしないのか」と係の人に聞かれ、「今日は大普賢まで行くので…」と答えて手前の岩に腰を下ろす。向かい側に見える絶壁は、かって「剣の山」といわれ覗きが行われていたが、「諸人多く落ちて死したる事、三百人に余るを以て、今の西ののぞきに替えたり」と「和州吉野郡群山記」に出ている。その山の右端の岩場を下る小さい人影が現れ、手を振って声をかける。やがて先達の森沢さんを先頭とした皆さんが次々と到着して合流できた。
 修験者には、それぞれの靡で「唱えごと」をするきまりがあるが、西の覗きでは全員が修行を終えると「有難や西の覗で懺悔して、弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えるという。行はしなかったが係の人に「気をつけて行けよ」と声をかけられて、林の中に立ち並ぶ供養塔を見ながら進む。大峰登拝三十三度供養塔から百度を超えるものまで、古人の信仰の深さに驚かされる。やがて五つの宿坊(江戸時代には六坊)が並ぶ場所に来る。更に参道を進んで妙覚門をくぐり広場に出る。山上ヶ岳の中心地で大峯山寺本堂(かっての山上蔵王堂)が建つ。日本山嶽志には「本堂 堂宇壮麗、屋ヲ覆ウニ青銅ヲ以テス。役行者ガ登山ニ用ヒタリト称スル鉄錫杖及ビ鉄製ノ日和下駄アリ」とある。いうまでもなく大峰修験道の中心地であり、本尊蔵王権現と役行者を祀った日本最高所の重要文化建造物である。
向かい側の絵馬堂の軒下をお借りして昼食を取る。出発までの間、お花畑まで足を伸ばす人など思い思いの一時を過ごす。私は本堂を拝観後、数人と一緒に大急ぎで一等三角点(1719m)のある湧出岩まで往復した。大きな金属製の下駄と大錫杖が建つ広場の端から奥駈道に入る。平坦な道を緩く下り、化和拝宿跡と投げ地蔵を過ぎて阿古滝辻に来る。左に下ると阿古滝の行所、瑠璃窟があると聞いた。
山上ヶ岳を出て半時間で次第に高く水音が聞こえ、役行者堂や大きな護摩壇、避難小屋などのある小笹宿(かっては小篠宿)に着いた。ここは当山派修験の根本道場として重要な聖地であり、地蔵岳と竜ヶ岳の鞍部にあって水が豊富なこの山中の小広場に、近世には四十四坊(三十六坊とも)があったという。「…群山記」に面白い記述がある。「七月十三日には多くの人が参籠するので、直接この宿に行くと軒の下で夜を過ごさなくてはならない。一つ三百文の握り飯を売っているので、これを食べる。ところが山上の坊で一泊して翌日、切手を貰っていけば、宿では赤飯をお膳に据えて出してくれ、何ら煩わしいことがない」。また入口に関所があり、ここで山銭三匁を徴収されるとも出ている。
清流を渡って水に濡れた岩道を登っていくと、緩やかな道に変わり竜ヶ岳の左肩を通る。ホトトギスが甲高い声で盛んに鳴いている。靡六十五番の阿弥陀ヶ森は柏木道との分岐点で、ここまでが女人禁制で結界門がある。阿弥陀ヶ森(1680m)のピークのやや南西に位置している。小憩後、深い林の中を行くと、モミの木の幹にたくさんのお札が打ち付けてある。ここが靡六十四番・脇の宿で、このように靡き(行場)ごとに「碑伝を収め」て勤行するのが修験者の習わしである。碑伝は「○○年 大峯山 奉修行大峯奥駈天下泰平如意祈 ○月吉祥日 講名」といったものだが、昔は先行者のトレースを示す役割をしたのかも知れない。経筺石への分岐から、いよいよ普賢岳への登りにかかる。
行く手の木の間越しに、高く遠く見えていた二つピークが次第に近づいてくる。切れ目なく続くシャクナゲ林はすでに花期を過ぎていたが、たった一輪だけが咲き残って目を楽しませてくれた。コマドリやシジュウガラの仲間もきれいな声で、登りの苦しさを慰めてくれる。途中で小憩はあったが脇ノ宿から50分、最後は息を弾ませて小普賢岳の小岩峰に登り着く。明王ヶ岳とも呼び、ここで勤行が行われるという。霧が流れ、目の前の大普賢岳が消えたり浮かんだりする。コイワカガミが咲く急な岩場を下り、美しい笹原をしばらく辿ると笙ノ窟への分岐にでた。ここまで来ると大普賢岳の頂上まで、ほんの一投足。バイカツツジのだろうか、小さい白い花が散り敷く明るい林の中を登る。1779.9mの頂上は、昔は普賢ノ森といったそうだ。残念ながら雲に包まれて展望は全いが、長い一日の最後のピークに立てた満足感は大きい。しかしまだ厳しい下りが待っているので、記念写真を撮って急いで下山にかかる。
チョリチョリチョリチヨリと鳴くメボソムシクイの声を聞きながらしばらく下ると、道は嶮しくなり鉄の梯子や鎖が設けられた所が連続する。前に来たときに比べると格段に整備されているが、かえって歩き難くなったと感じるのは私だけだろうか。こんな所に必要かと思うような場所にまで新しい鎖があり煩わしい。「石の鼻」まで、ずいぶん長く感じた。ガスが濃くなり時間も遅くなったので、岩頭からの展望は次回の登りの楽しみにしてどんどん下る。日本岳のコルを右に下ると、大岩壁の下を回り込む形で笙ノ窟の前に出る。ここは冬の間も参籠行のある所で、前に不動明王像と新しい説明板があった。窟の中に入り、天井から滴り落ちる冷たい清水を頂くと、あらためて元気が湧いてくる。無事、本日の奥駈行を終えたことに感謝して小声で般若心経を唱えてから、パーティの後を追って缶ビールとマイクロバスの待つ和佐又ヒュッテに急いだ。(この項を書くに当たって、靡など修験道関係は森沢さん、鳥類や草木の名称については新井さんから多大のご教示を受けた。また、一般参加者の方々にも行動中にゴミを拾うなど、いろいろとご協力頂いた。厚くお礼申し上げます)
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