大峰奥駈道(1)  花の吉野山 



【登 山 日】2004年4月10 日(土) 晴
【メンバー】日本山岳会関西支部:17名(L森沢義信)、会員外:10名、計27名
【コースタイム】近鉄六田駅08:50…75六田宿08:55〜09:05…吉野神宮09:50〜09:55…74丈六山(峰薬師)10:15…73蔵王堂10:43〜10:50…72水分神社11:47…高城山12:10〜12:50…71金峰神社13:00〜13:15…70愛染宿13:20…青根ヶ峰13:35〜13:40…大滝への分岐13:50〜14:00…大滝バス停15:10

「古来の修験山嶺を辿る」シリーズ山行がいよいよ始まった。関西支部創立70周年記念行事の一つとして、森沢さんに知恵をお借りして委員会に提案、承認されたものである。どれだけ参加者があるか危ぶんでいたが、なんと27人もが花見客で満員の電車から近鉄六田駅に降り立った。終点吉野の3駅手前なので、他の乗客が不審そうに見ている。空も青く晴れ上がり、まずは幸先良いスタートである。阿部支部長に挨拶、大峰山護持院櫻本坊の中先達である森沢さんにリーダーをお願いして、私が最後尾で出発。逆峰(ぎゃくぶ)なので最初の「靡(なびき)」が75番の「柳の宿」(六田宿)になる。サクラの木の下に古い灯篭と説明板が立っている。
ここで吉野川を渡って水垢離を取り大峰詣りをした「柳の渡し」には、今は立派な美吉野橋が架かっている。対岸には役行者像と「六田の渡し たらちねの親にもらいし皮衣今ぬぎ捨つる吉野川上」の碑があった。かって賑わった宿場町の面影が微かに残る、細い道を行き右に折れる。町筋を離れると土の道になり、足元には野の花が咲く里山の感じになる。「一の坂」と呼ばれる急坂を登りきると墓地の横に出て、吉野川の流れが下になった。ここから緩く登ると左手に学校のような建物(青少年の家)、右手に竹藪があり、すぐに広い舗装路に下った。吉野神宮の大鳥居の横である。静かな山道らしかったのはここまでで、観光バスがひっきりなしに通る舗装路を緩く下っていくと次第に人の数が増えてきた。この辺り一帯が丈六平だそうだ。
峰の薬師堂と松山茶亭址を過ぎ、ちょっと石段を登ったところに村上義光公の墓があった。「村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦いましたが…」の説明がある。
 阿部支部長のご先祖にあたるそうだ。「花よりも軍書に悲し…」の想いにふけるのも束の間、駐車場を過ぎると更に増える人の波でとても一団では歩けず、蔵王堂で集まることにして三々五々、人混みの中に紛れるように歩く。下千本のサクラは満開を過ぎているが、この辺りから見る蔵王堂は花に埋もれるようだ。
花供会式の準備をしている蔵王堂を抜けて、飲食店や土産物屋の並ぶ道を行く。雑踏はますますひどくなり、花矢倉からの絶景も他人の頭越しだ。水分神社の境内でシダレヤナギをカメラに納め、門前の売店で缶ビールを2本仕入れる。高城山に登り、春霞の山々を眺めてから広場で昼食を取る。今日は車でないので、久しぶりに山でビールが飲めた。食後は支部長の鉢巻きを旗代わりにお借りして記念撮影。
ちょっとほろ酔いで金峰神社を過ぎる。ここで奥駈道は西行庵のある奥千本への道と分かれる。「峰入りや一里遅るる小山伏」の句碑があった。GPSの電池が切れたので立ち止まって交換する間に、本当に少し遅れてパーティを追いかける羽目になる。「従是女人結界」の石碑がある愛染宿跡から左手に折れ、最後は丸太の階段で青根ヶ峰に登る。三角点があるが樹木に囲まれ展望はない。第一回目の奥駈道はここまでである。
鉄製の階段を下るとすぐに大滝への降り道にでた。もう午後2時なのにわれわれよりも人数の多いツアー客らしいパーティが登ってくる。この後は私たちだけの静かな山になった。下りだしてすぐ、台風で倒れた木を切り開いた明るい場所に来る。斜面の上でチェインソーの音がする。倒木を何本乗り越えて降りていくと、背後で伐採した木を落としている様子である。急坂はやがて音無川沿いの道になり、次第に広く緩やかになる。どうせバスの時間には間に合わないので蜻蛉ノ滝を見ていくつもりだったが、道が舗装路に変わってから前方のペースが速まった。
滝への分岐を通り過ぎ、庭に見事な枝垂れ桜が満開の、大滝で一番上の民家前に来た。外に出ていた家の人が「お帰り、ご苦労さん」と声をかけてくださる。バスと競争するようにして大滝の停留所に着き、今日のお礼と次回の予定を話しているとバスが到着した。宮滝から乗った人で満員になったバスを上市で降りると、次の行程の四寸岩山が正面に、その右手にサクラに囲まれた蔵王堂が見えた。天候に恵まれ、素晴らしい人たちと歩けた楽しい山行だった。

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