高 野 三 山 



【登 山 日】 2005年8月5日(金) 晴れ
【メンバー】芳村嘉一郎、芳村和子
【コースタイム】中の橋駐車場08:45…浄め橋09:00…摩尼峠09:30…摩尼山09:45〜10:00…黒河峠10:22…揚柳山10:40〜11:05…子継峠1125…林道11:50…転軸山12:05〜12:15…一の橋13:00 …中の橋駐車場13:25



猛暑が続く。涼しい高野山にお参りして河口慧海師の供養塔を尋ねよう、せっかくだから奥の院を囲む三山を歩こうという話になった。三山巡りは17年前にハイキング同好会(千日山歩渉会の前身)例会で行ったことがあるが、このときは時間切れで転軸山は割愛している。今日は更に森林公園を通って一周する予定である。
今年三度目の高野山だが、夏休みのせいか朝から車も人も多い。中の橋駐車場から奥の院へ続く杉並木の参道に入ると、ひんやりした霊気が漂い、アジサイの青紫色が涼やかである。御廟橋から御廟を拝み右に折れる。水向地蔵さんの横に「水行場」と「三山巡り参詣入口」の石標が並んでいる。「浄め橋」で玉川を渡り、門を出て林道を登る。車止めの鎖をまたいで、しばらく歩くと「摩尼山登山口」の小さな標識が木に下がっていた。
山道になると急に勾配が強くなる。沢沿いの道には、まだ蕾だがウバユリが多い。急坂になり、右ついで左と大きく曲がり返すと祠のある摩尼峠に出た。大きな捕虫網を持った男性二人が登ってきた。聞くとこの山には特産のタマムシがいるそうだ。一息入れて出発。山腹道はすぐに終わり、急な木の階段が続く。二人ともすぐに全身汗まみれになった。摩尼山山頂には樹木が多く、展望は全くない。汗を拭い、冷えたオレンジを食べていると若い男性が通っていった。この後、下山するまで誰にも会わない静かな山歩きとなる。
ゆるやかな尾根道を行くと、右手のヒノキ林から涼しい風が吹き上げて来る。今が盛りのウツギやヒヨドリバナ、蕾のウバユリなどを見ながら歩く。左手の展望が開けるところがあり、その先からは咲き終わったササユリが点々と続く。「花の時期に、もう一度来て見たい」と和子がいう。黒河峠から急登になり、いったんゆるんで再び階段道を頑張ると揚柳山山頂に出た。祠があり、前に「揚柳観世音」側面には「天保五甲年三月」、と「摩尼山二十丁、転軸山二十丁」の石標が立っている。三角点はこの祠の後ろにあった。少し低いところに「摩尼山三輪明神」の小さい祠もある。山頂は広いが、ヒノキ、モミ、ツガ、アカシデ、ブナなどの樹木に囲まれて森厳としている。少し早いが、涼しいので昼食をすませる。
いったん下った後、スギ林の中を登り返す。木のベンチと道標があるピークから、かなり急な階段道の下りになる。下りきった所はT字路になっていて、「左奥の院、右・久保、北又へ」「粉種(子継)道」の標識がある。夏草が茂り、廃道に近い感じの道が右へ始まる所に、子安地蔵の祠があり、前に大きなオニユリが咲いていた。この子継峠から左へ下る道は、少しじめじめしている。沢沿いになり小さな木の橋を何度か渡って草原に出た。先程まで曇っていた空が晴れて、容赦のない陽光が照りつける。一面のススキに混じってチダケサシのピンクの花が咲いている。せっかく引いていた汗が、たちまち吹き出してきた。ようやくT字路になった車道に出た。17年前にはここから左の奥の院に下っている。
林道を右に少し歩き、横断する格好でスギ林の中の階段を登る。いったん勾配がゆるみ再び急登になる頃、妙なる女性のコーラスが聞こえてきた。時計を見ると正午である。さすが高野山だと感心するうち転軸山頂上に着いた。ここには弥勒菩薩の祠がある。左、奥の院へ下る道を見送って、女人道の通る南西尾根を転軸山森林公園に下る。急な坂道から薄暗い林の中に入る。シャクナゲの群落を過ぎ、池の横を通ると急にバスの通る舗装路に出た。ここまで要所にあった「高野七口女人道」の道標がなくなり、南海電鉄の「ハイキングMAP」を見ながら、森林学習展示館や中之橋霊園と暑い舗装道路をうろうろ歩く。思い切って霊園に入ると、事務所の横に小さい小さい橋があった。橋を渡るとスギ林の中の玉石を敷いた道になり、供養塔が並ぶ区域に入る。すぐに「中之橋霊園、スキー場」を示す道標の立つ参道に出た。


慧海師の供養塔は一の橋近く、参道に建つ「雪山道人慧海師供養塔」という石標から三区画奥にある。下部に「慧海」という大きな文字を刻んだ五輪塔で、横に由来を記した銅板を埋め込んだ大きな石標がある。 曰く
「この塔は、我国最初のヒマラヤ踏破者、日本チベット学の始祖 在家仏教の首唱者である 雪山道人、河口慧海師の供養塔である。
 師は慶応二年堺市に生まる。宇治黄檗山にて一切蔵経を読誦し、仏典の正解は原典のチベット訳に依るべきを悟り、明治三三年、印度よりネパールに入り、単身ヒマラヤの険を越え、鎖国の秘境チベットに潜入す。セラ大学に学び、法王の知遇を受け、帰国する際多くのチベット蔵経を将来す。後再びチベットに入り、チベット蔵経、梵語蔵経、並びに仏像、仏具、博物標本等を得て帰国す。これらは東京大学などに所蔵されている。
 師は持戒堅固、肉食妻帯を退く。諸大学にチベット学を講じ、仏教宣揚会を設立、在家仏教により正真の仏教を説く。梵蔵仏典の和讃、西蔵文典、在家仏教、正真仏教、西蔵旅行記等の著あり。戦禍国中に及ぶも、蔵和辞典の編纂に努む。昭和弐拾年二月、東京都にて円寂す。           「昭和五五年供養塔を建つ」
参拝を終えて駐車場に帰り、車に乗る頃から大粒の雨が落ち始め、大門からドライブウエイを下る頃には土砂降りになった。この日、豊中は37.4℃、堺でも37.2℃を記録、涼しい筈の高野山が期待したほどではなかったのも当然の暑い日だった。 

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