59 八経ヶ岳(1,915m)





(はっきょうがたけ)別名・八剣山、仏教ヶ岳。大峰山脈の中央部、弥山の南側にある。大峰の盟主であり、近畿地方より西(本州)の最高峰である。山頂に役行者が法華経八巻を埋めたといわれ、奥駆第五一番行所となっている。弥山から八経ヶ岳、明星ヶ岳にかけてはシラビやトウヒの原生林が多く、また弥山と八経ヶ岳の鞍部周辺には「天女の花」オオヤマレンゲの自生地があり、天然記念物に指定されている。
 八経ヶ岳は現在こそ登山者の人気が高いが、古くは弥山を中心とした「山上」の一高所で、弥山に比べるとそれほど重要視されていなかった。例えば『吉野郡群山記』では『弥山の記』で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、「鉢経 弥山辻にあり。道、左右に分かる。右(東)、山に登れば弥山に至る。左(西)、山を下れば川瀬村に出る。その分れる辻に金剛童子の小社あり。」と記載されているだけである。記述の中心はあくまでも「弥山」で、山の様子、宿の紹介、弁財天奥社、伝説まで詳細に記している。現在でも両山の位置関係などで、殆どの場合は弥山とあわせて登ることになる。

 1970年代に山友達と二人で弥山谷を遡行したことがある。桟道や橋の崩壊箇所が多くて体力を費やし、双門ノ滝を見上げるところまで登り、引き返した。 
1994年7月10日、オオヤマレンゲを見るのが目的で、ふたりで登った。前日、玉置山に登り、天川村川合の弥仙館に泊まる。夕食には鹿の刺身、鮎の塩嫉き、岩魚の天ぶらなどが出た。天然クーラーが効きすぎて寒いはどの部屋で、川の音を子守歌にぐっすりと眠った。7時前に着いた行者還トンネル入口駐車場が、すでに林道にまで車が溢れているのに驚く。
尾根に向かって直登する。シャクナゲの木が多く、その枝や根を手がかり、足掛かりに使わせてもらう。休まずに一歩一歩高度を稼ぎ、笹原に出ると勾配もゆるまり、奥駆道の通る稜線上に出た。尾根道を緩く登って1600mの三角点を過ぎ、いったん下って平坦地に出る。ブナの大木が多く、草地の中のなかなか気持ちのいい所だ。理源大師の青銅像のある聖宝宿跡からいよいよ胸突き八丁の登り。
結構長くて厳しく、とうとう立ったまま足を休める。ふと見ると道の脇にオオヤマレンゲの白い花が、夢のように浮かんでいた。草原のなかの弥山小屋は新しい棟を建築中で、他に二棟があり、道に面した方に皇太子が泊まられたそうだ。よくこんな所にと同情するほど、雨露を防ぐだけといってもいいくらいの粗末な小屋だ。鳥居を潜って、小屋裏の高みにある神社へ参る。天川弁才天の奥の院だ。
八経ヶ岳へは小屋の前から、コメツゲの目に染みるようなグリーンの中をいったん下る。下りきったところは古今の宿跡で、オオヤマレンゲの群生地である。幻の花と言われ、天女の姿にもたとえられる清楚な白い花が、蕾から半開、満開、落花寸前のものと様々な姿を見せている。
 ゆっくり登ると、案外簡単に1915m、近畿最高峰の頂きだった。南に仏生ヶ岳から釈迦ヶ岳へ続くスカイラインが鮮やかに、北の大普賢から東の大台の方は雲のベールを被って見えた。
2004年10月、JACの山友と新しくなった弥山小屋で一泊し、頂仙岳から八経ヶ岳へ巡った。
 聖宝八丁の道はなだらかな新道に変わり、旧道と合流した後も幅広い木の階段や鉄梯子で歩き易くなっていた。しかし、酸性雨の影響か弥山の縞枯れ現象は一段と目立ち、オオヤマレンゲ自生地にはシカの食害を防ぐためのネットが張り巡らされていた。ただ、山頂からの大峰、台高の大展望だけは昔と変わらず、雄大そのものであった。
2005年4月のJAC奥駆道山行では行者還トンネル東口から登り、一ノ垰(タワ)から奥駆道を南下、弥山小屋で一泊。八経ヶ岳から、激しい起伏の連続する大峰山脈の稜線を釈迦ヶ岳へ。そして修験集落・前鬼に下っている。歩行距離27キロ、二日目の所要時間は12時間に及んだ。また2008年7月にはやはりJAC自然保護委員会主催の大山レンゲ観察会で歩いた。この時は前夜、弥山小屋に泊まり、7時半、八経ヶ岳に登頂。明星ヶ岳、日裏山、栃尾辻を経て14時、坪ノ内に下山している。

私の関西百山
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