57 大普賢岳(1,780m)





(だいふげんたけ) 大峯奥駆道は山上ヶ岳から東へ約2キロの小笹宿で女人禁制区間を終わる。次いで阿弥陀ヶ森近くで南へ方向を転じて、3キロで大普賢岳に至る。奥駆行所(第六三番普賢岳)の勤行は本峰北にある小普賢岳で行われている。普賢岳の名は、この行所の礼拝対象である普賢菩薩からきている。
 始めて二人で登った1994年、その2年後に町内のハイキング同好会での山行、2006年7月のJAC関西と千日山歩渉会の合同山行(21名の大パーティ)は、いずれも和佐又ヒュッテから笙ノ窟、石ノ鼻(岩頭の展望台)を経て登った。 

大普賢岳山頂から東に延びて伯母峰峠に続く笙ノ窟尾根山腹には鷲ノ窟、笙ノ窟、朝日窟(上左)、指弾ノ窟(上右)などが連続しているが、中でも笙ノ窟は平安時代から冬籠り修行の場として知られる。
『吉野郡群山記』に
「窟の内広き事、二十畳ばかり。水湧き出る処有り。修行の僧、九月九日山止りの節より、飯菜等を用意し、来年四月八日まで籠るを、冬籠りの行と云ふ。冬に至れば、巌谷の外は白雪積りて、往来なしがたし。…」とある笙ノ窟は六二番靡(行所)である。
2004年に大峯奥駆の途中で二度山頂に立った。6月は五番関から山上ヶ岳を経て大普賢岳に登り、笙ノ窟を経て和佐又に下った。9月には和佐又から前回終点の大普賢岳へ登り返し、そこから行者還岳へ向かっている。
 和佐又にはヒュッテと大きなキャンプ場もある。西行らの三歌碑が立つ広場から和佐又分岐を過ぎて、美しいブナやヒメシャラの林になる。指弾ノ窟の前を通り、鉄ハシゴを登って朝日窟を通過し、笙ノ窟に着く。洞窟の天井からは冷たい水が滴り落ちている。岩壁の下を辿り、キレット状の岩場を長い梯子で日本岳のコルに登る。さらに短い鉄の階段をいくつか過ぎると
石の鼻である。遭難碑のある小普賢岳へ往復し、金属製の桟道を渡り、ハシゴを登って次第に高度を上げていく。最後は何度もジグザグを繰り返して稜線の奥駈道に出る。
奥駆道は山頂西側の山腹を捲いているが、数分で大普賢岳頂上に達することができる。和佐又から休憩を入れて2時間ほどだった。 山頂からは山上ガ岳の宿坊まではっきりと望める。さらに稲村ヶ岳の間には金剛・葛城の山々、南には奥駈道上の行者還岳、弥山、八経ヶ岳、行仙岳、笠捨山…と見飽きることがない。
大普賢岳から奥駈道を南に辿ると水太覗に下る。弥勒岳を捲き、内侍落しを下り、岩壁に太い鎖がつけられた薩摩転びを過ぎると稚児泊(六十番行所)。国見岳から緩く下って七つ池を見る。岩場の登りで尾根に登ると七曜岳頂上である。
2006年には、この先で奥駈道と別れて和佐又へ下った。水太谷までは標高差およそ600mの長い下り。谷の左岸に石灰岩にうがたれた無双洞がある。ここから流れ出る落差20mの水簾ノ滝の落ち口を対岸に渡り、源流部の涸れ谷に出て対岸の林の中を登る。 アングルが打ち込んである急勾配の岩壁を登ると底なし井戸に来る。森澤義信氏の「奈良80山」には「昭和初期の記録では…深さは30mあり、誤って墜落した森の動物の白骨が累々としていたとか」と書かれている。ここから林の中を歩き和佐又ヒュッテに帰る。(このときは大人数のため、山頂より休憩を含め5時間かかった)。

私の関西百山
inserted by FC2 system