2011年 フ ラ ン ス の旅(1)


2011年1月18日(火)から25日(火)まで「フランス決定版8日間」と銘打ったHK社のツァーに参加した。 前に変愚院が仕事の関連でフランスを訪れたのは1979年のこと、ギリシャ、ブルガリア、イタリアを訪問した後、誕生日をパリで祝ってもらった翌日、ドゴール空港の職員(管制塔)のストで帰りの飛行機が飛べなくなった。ツァーリーダーの機転で急遽、バスをレンタルしてフェリーでドーヴァー海峡を渡り、ヒースロー空港からバンクーバー経由で羽田へ飛び(成田はまだなかった)、ようやく帰れたと思うと今度はエンジントラブルで空港で待機。結局は深夜バスで大阪へ帰るという始末だった。今回はそんなことはあるまいと思っていたら、思いもよらず♀ペンがフランスの土を踏むや体調を崩し、観光初日からほとんど飲まず(水以外は)喰わず(エスカルゴも1個!)のみじめな旅になった。それでも何とか関空に辿りついたが、ついにダウン。急性胃潰瘍で一週間入院する羽目になった。以下はそんな、あたふたした旅の顛末である。
1月18日(火) 関空発、長い長い空の旅で深夜、南仏・ニースへ着く。

1月19日(水) ニース 
南フランスの観光都市 Nice は 英語読みでは「ナイス」。ほんの僅かな滞在でも確かに美しいナイスな街であることを実感できた。街は地中海に面し、背後には白銀のアルプスが聳えている。8時過ぎホテルを出たバスは通勤ラッシュ直前の町を抜けて海岸へ。海岸へ出るところで「阿波踊り」の観覧席のような桟敷が組まれていた。春が来ると行われるカーニバルの準備が、はや行われている。
海岸に沿って続く美しい散歩道がプロムナード・デザングレ(Promenade des Anglais)。英語に訳すと「Promenade of the English」つまり「イギリス人の散歩道」である。
 海岸線はコートダジュール(Cote d'Azur)つまり「紺碧海岸」と呼ばれ、西は映画祭で有名なカンヌへと続いている。湾曲したこの辺りは「天使の湾」と呼ばれている。この辺りの海岸には大きな石がごろごろし、ちょっと歩きにくい。(夏賑わうのはもう少し西のニース・コート・ダジュール)
 夏にはエメラルド色に輝く筈の海は鉛色の冬空を映しながらも美しく、白いカモメが群れ飛んでいた。
海岸周辺は高級ホテルや住宅が多く、岩山の上に小さく砦の址が見えていた。
プロムナード・デザングレを一本北に入ると、旧市街である。今日は時間がないので雰囲気を味わっただけで、露天市を歩いただけ。まだ朝早いのでお店を開いたばかり…それでも花屋さんや珍しいハムやソーセージを売る肉屋さん、八百屋さんなどの店が並び、ぐるっと見て回ると、なかなか楽しいものだった。お土産に小さな陶器のセミを買う。フランスでセミの鳴き声が聞こえるのはここだけだそうで、幸福を呼ぶ昆虫とされている。それと色鮮やかな匂い袋を買った。
 次の目的地プロヴァンス地方の小都市、エクス・アン・プロヴァンスへ177kmをバスで移動する。車窓から見る海岸通りでは、老若男女それぞれに散歩、ランニング、スケートボード、サイクリングなど自分の好きな運動を楽しんでいた。
プロヴァンス地方の歴史は古くギリシャ時代に始まり、とくにローマの植民都市だったローマ時代に栄えた。紀元前2世紀にフランスで初めてのローマ属州となり、プロヴァンスの名前も「プロヴィンキア・ロマーナ(ラテン語)」つまり「「ローマ属州」からきている。その後は各国から繰り返し侵略され、15世紀後半になってフランスに併合された。このような歴史を持つ地方のため、言葉にも強い訛りがあり、独自の文化が形成されている。その中心が
エクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)
<フランス語はアンシェヌマン(前の子音と跡の母音をつないで発音)するのでフランス人にはエクサンプロヴァン>1時間ほど市内を散策した。
 この町の名前のエクスはラテン語の「アクア(水)」が転訛したもので、市内には100を超す数の大小の噴水があり「水の都」といわれている。私たちの町歩きのスタートも、ミラボー通、
「トロンド噴水」のあるドゴール将軍広場から始まった。ミラボー通りはエクスを南北に分けるメインストリートで、プラタナスの並木道が続き、両側の建物は17〜18世紀の貴族の邸宅が多く、優雅な雰囲気の中を若々しい学生たちが闊歩している。
ミラボー通りの北側が旧市街で、この辺りを中心とした区域が世界遺産に指定されている。旧市街に入ると、ジューススタンド、小さなレストラン、革製品の店、靴屋、小物を売る店などがぎっしり並んでいる。石畳みの舗道、古い煉瓦造りの建物、ギターを弾きながら物乞いをする老女…確かに長い歴史の重みを感じる。ただ、残念なのはゴミやタバコの吸い殻が散乱し、それが空っ風に舞って情緒を台無しにしていたことだった。
土産物屋さんのショーウィンドウに並んでいるのは郷土人形の「サントン」。クリスマスに各家庭でキリスト生誕の様子などを表す人形を飾る習慣があり、先祖代々受け継がれてきたものが多い。日本の雛飾りに似ている。
 「Santoun」はプロヴァンスの言葉で、フランス語ではPetit Saint=小さな聖人の意味だそうだ。この地方特産の石灰分を含んだ粘土で作られている。人形たちの纏っているのは18世紀頃のプロヴァンス地方の民俗衣裳である。よく見ると、色んな職業の人達が並んでいる。
 
市庁舎前の広場にも噴水があり、お昼休みにカフェの前でくつろぐ人々が、暖かい日差しを浴びて談笑していた。
市庁舎横の時計の付いている塔の下をくぐって進むと、
サン・ソーヴール大聖堂(上左)の前に出た。5世紀から17世紀までの様々な建築様式が見られる有名な大聖堂である。残念ながら、時間がなく入場できなかった。ここが旧市街のおよそ北の端で、元の道を集合場所に引き返す。途中、セザンヌの通っていた大学の前を通る。
 エクスは「近代絵画の父」といわれるポール・セザンヌの生まれた町で、彼のアトリエはじめ様々な所縁の場所が残っている。
アルル Arles
「アルル」といえば、まず浮かぶのがビゼーの組曲「アルルの女」。しかし、この町に縁の深いフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh:フランス語ではヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)にも同じ題名の有名な絵画がある。
 ゴッホは1853年生まれのオランダ人だが、画家を志してデッサンの勉強を始め(1880年)、パリへの移住(1886年)の後、陽光にあこがれて南フランスのここアルルでポール・ゴーギャンと共同生活を始める。1888年2月から翌年5月までの間に200点以上も制作した絵画の風景は、今もアルル周辺にその面影を残している。
1月19日 16時前、郊外の
「アルルの跳ね橋」(ラングロワ橋)に着いた。町の中心部から約3キロほど南西に離れた運河に架かっている。ゴッホの代表作の一つに描かれた橋だが、現在のものは観光用に復元されたものでゴッホが実際に見た光景とはかなり違うということである。
市の中心部にあるエスバス・ヴァン・ゴッグ。(ゴッグ、ゴーグは「ゴッホ」のフランス読み)
ゴーギャンとの仲がうまくいかなくなったゴッホは精神を病み、自分の耳を切って女友達に送るなどさまざまな奇行を始める。
 ここは1889年にゴッホが療養生活を送った病院。現在は市の総合文化センターとして内部に図書室や資料室などが設けられている。ゴッホはここで「アルル療養所の庭」を描いた。その中庭もゴッホの絵の通りに復元されている。
レピュブリック広場(同じ名前の広場はパリにもある)にはエジプトから運ばれたオベリスクが建っている。国旗の立つているところが市庁舎、右の建物はサン・トロフィーム教会である。少しの時間だが、中に入り拝観した。美しいステンドグラスが夕陽にきらめいていた。
 
夕暮れ迫る町を急ぎ足で歩く。これはゴッホの「夜のカフェテラス」のモデルとなったカフェ。
今は Cafe Van Gogh と呼ばれている。ゴッホの絵には前に置かれた模写のように、美しい星空の下のこのカフェが描かれている。
明るさの残る高台に来る。風が強く、夕方から凄く冷え込んできた。予想外に暖かい南フランスだったが、始めて寒さを感じた。
 この建物は ARENES。1世紀に造られた巨大円形劇場である。中世には要塞として利用され、19世紀に闘技場として再建。現在は夏から秋にかけて、ここで闘牛が行われている。入口は締まっているので、開けたところから覗いて見ると階段状になった観客席の一部が見えた。ゴッホは、ここでも熱狂する観衆を描いた絵「アルルの闘牛場」を残している。
 闘技場前から街並みを見下す。確か、この辺りにゴッホの愛した娼婦が住んでいた…と聞いた気がする。日が落ちて移動式遊園地のメリーゴーラウンドに灯りが点った。

1月20日(木) アヴィニョン AVIGNON
町の歴史は紀元前6世紀ごろ、ギリシャ人がこの町を交易の拠点としたことに始まる。14世紀に法王庁がここに移転し、グレゴリウス11世がローマに戻るまで1世紀にわたってローマ法王領として栄えた。
 まずローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋 PONT ST BENEZETを車窓から見学する。「アヴィニョンの橋の上で」の童謡で知られる橋は、12世紀に「羊飼いのベネゼ」が神のお告げによって造り始めたと伝えられ、最初は木の橋だった。1226年に石の橋に架け替えられた当時は、全長920メートル、幅4mの22のアーチを持つ大きな橋だったが、17世紀の大洪水で殆どのアーチが流され、今は4つのアーチを残すだけの川の途中で途切れたままの姿になっている。幅4mの橋の上で「輪になって踊ろう」というのは、どう考えても無理な話で、実際に橋の下の中州で踊ったということだった。
バスは城壁を潜って駐車場に入る。法王庁の裏(北側)にあるこの城壁は、自然の岩壁を利用した要塞の役割を果たしていた。中世のキリスト教団は封建領主と同じように、敵からわが身を守るために私兵を持つなどして領地・財産を守った。法王といえども例外ではなく、町(領地)全体が城壁で囲まれて今に残っている。
 この城壁の上はドン岩壁公園(ロシェ・デ・ドン ROCHER DES DOMS)で、美しい庭園があり、またローヌ川や対岸の町などの絶好の展望台になっている。ここへは後ほど訪れることにして、まずは町の中心地へ。
時計台広場。左に見える建物はノートルダム・デ・ドン大聖堂、右が法王庁である。前に見える黒いオブジェは、最近造られた「ゾウが鼻で逆立ちしている」形のもので、歴史の古いアヴィニョンの建築物の中では、ちょっと不似合いな感じがする。
 大聖堂は12世紀半ば建造されたロマネスク様式の教会堂だが、その後何度となく改修されている。鐘楼の上の聖母像は19世紀半ばのもので、最近、新しく金箔が張られたそうだ。時計台広場を少し北に行くと法王庁があり、両側にプラタナスの並木が続くレピブリック通りがまっすぐ南のアヴィニョン駅に通じている。市役所は堂々として美しい建物で、その右隣にある劇場も入口両側に人物像の彫刻をもつ立派な建物である。大きなホテルやレストランなどの建物が立並んでいるレピブリック通りを、しばらく駅の方に行ってスーパーマーケットで酒の肴など買って、広場に帰った。
法王庁(LE PALAIS DES PAPES 教皇宮殿)
ヨーロッパ中世の代表的なゴジック様式をもつこの宮殿は、教皇(法王)のアヴィニョン捕囚時代<バビロンの幽閉(1309年〜1377年)>に教皇の住居だったところ。完成までに30年を要したという、この要塞のような建物は新旧ふたつの区画に分れている。
 1433年、ローマ教皇庁の所有財産になったが、1789年のフランス革命時に殆ど破壊されてしまう。その後、牢獄や兵舎として利用され、現在は修復されて国営の博物館として公開されている。
 法王庁横の坂道を登って、ドン岩壁公園へ歩き、広大な公園の上から市街を見下ろした。反対側からはローヌ川を挟んで対岸の景色が見えた。ともかく時間がなくて帽子が飛びそうになるほどの強風の中を、城壁の端まで往復するだけで精いっぱいだった。
ポン・デュ・ガール Pont du Gard
アヴィニョンから西へ23km、ガルドン川にかかる水道橋はローマ時代の遺跡として、世界遺産に指定されている。三層の巨大な水道橋は、アビニョンの東にある水源地ユゼスから50qはなれたネマウスス(現在のニーム)まで水を通す途中でガルドン川を渡るために、紀元前19年頃に架けられた。アーケードは上に行くほど幅が狭くなっている。導水路のある上層は長さ275m、幅3m、高さ7mで35のアーチ、中層は長さ242m、幅4m、高さ20mで11のアーチ、下層は長さ142m、幅6m、高さ22mで6つのアーチからできている。全体の高さは最低水位から49m。
 下層のアーケードを対岸へ渡ってみた。三層が重なっているのでなく、下層は少し手前に張り出して人が渡れるようになっている。中層の橋桁を見ると工事の跡がよく分かる。19世紀にもナポレオン3世の命令で改築されているが、柔らかい石材なのか、欄干には落書きがたくさん彫られていた。
リヨン LYON
橋の近くのレストランで、プロヴァンス地方の名物料理、ラタトゥイユ(野菜の煮込み)と肉料理の昼食後、232km離れたリヨン歴史地区へ移動する。
 風が強い所らしく風力発電のプロペラが並んでいるぶ平野部ではいいお天気だったが、プロヴァンス地方への北側の出口、モンテリマール近くになると雪が舞いだした。両側から山が迫りローヌ川谷が狭くなった横を走る頃には激しい吹雪になり、リオンの観光も半ば諦めていた。 ところが幸運なことにリオンに着く頃には、雪から変わっていた雨も上がりフルヴィエールの丘へ登っていくうちに次第に青空が拡がってきた。
 まずは丘の上からリオンの大パノラマを見る。下に見える川はソーヌ川で、その手前(西側)が古い時代の建物が今も残る旧市街、川向こうがベルクール広場を中心とした繁華街である。
フルヴィエール教会 BASILIQUE DE FOURVIERE
1872年にリヨン市民の寄付で立てられた教会で、右の塔の上には町を見下ろす黄金のマリア像が夕陽に輝いている。正しくは「ノートルダム・ド・フルヴィエールバジリカ聖堂」という長い名前で、1872年から1896年にかけて、街を見下ろす位置に建てられた。
 入口をくぐるとほの暗い内部を照らすキャンドルの揺らめきと、美しいステンドグラスの輝きに目を奪われる。モザイク画も装飾も、私たち門外漢から見ても優れた作品ばかり。しかも誰でも自由に参観することができる。
教会横のお土産屋さんの店先には「星の王子さま」関連グッヅが多い。リオンは「夜間飛行」や「星の王子さま」で有名な飛行家・サン=テグジュペリの生地である。(彼の正しい名前は Antoine-Jean-Baptiste-Marie-Roger de Saint-Exupery、それにしても長い名前だ)
バスで町を下り、リオンの中心地へ向かう。フルヴィエールの丘の麓には中世の面影を残す古い街並みが残っている。ここには初期キリスト教の聖堂の址に建てられた

サン・ジャン大司教教会CATHEDRALE SAINT-JEAN
がある。12世紀から13世紀にかけて建てられたこの教会は、ロマネスクからゴシックへの移行期だったため2つの様式が入り混じっている。
 ソーヌ川に架かる橋の上から見たサン・ジャン大司教教会。丘の上のフルヴィエール教会とともに二つの教会が見られるビュー・ポイントである。現在正面のファサードの辺りは修復中で、横の小さな入口から内部に入る。
有名な天文時計 L’horloge astronomiqueは14世紀に造られたフランスで最も古い天文時計で、今でも毎日4回、美しい音色とともに上の人形たちも動き出して時を告げている。
 祭壇の左手奥にあるマリアの礼拝堂の背後には、ペテロとパウロの生涯を描いたステンドグラスがある。キリストの生涯を描いた別のステンドグラスの近くに、ルイ9世が葬られている。
ソーヌ川を渡ってリヨンの繁華街へ向かう。

ベルクール広場 PLASA BELLECOUR
17世紀に作られた広場に立つルイ14世の騎馬像と、新しい大きな観覧車が不思議な雰囲気を醸し出している。しばらく辺りをぶらつくうちに、すっかり暗くなった。今日の夕食はポーク料理のレストランへ。店中、ブタの絵や玩具だらけでウェイターもジェスチャーたっぷりで面白い店だった。

1月21日(金)
今日は長距離の移動日。7時半、リヨンのホテルを出てブールジュへ向かう。広大な農耕地や牧畜地を見ながら382kmを走って、昼頃、ブールジュに着く。近世の面影を残す古い民家の町並みが続く。昼食を済ませてブールジュ大聖堂へ。
ブールジュ大聖堂 Cathedrale de Bourges
正しくはサン・テティエンヌ大聖堂。12世紀末から13世紀末にかけて造られた主教座聖堂(カトリック教会の各教区の中心となる教会)である。ゴジック様式のこの美しい聖堂は1992年に世界遺産に登録されている。西正面のファサードには5つの扉があり、一番大きい中央の扉口は「最後の審判の扉口」と呼ばれている。
タンバン(扉口の上部のアーチに囲まれた半円形部分)とアーキヴォルト(タンバンの周りの飾りアーチ部分) タンバンの一番上層で両手を拡げているのは最後の審判におけるキリスト。中層で秤を手にしているのは大天使ミカエル、魂の重さを量っている。その左側が選ばれた者達の天国、右側が地獄に堕ちる者達。右端には地獄の釜がある。タンバンの下層には甦る死者たちが描かれている。下の人物像は「美しき神」。見れば見るほど精緻で美しい彫刻である。
 中央扉から教会内部に入ると、窓が大きくとられているので他の教会に比べて、とても明るく感じた。大きなシャンデリアが下がっていて、ここにも天文時計があった。美しいステンドグラスの下部に寄進者の職業が描かれているのも珍しかった。
ブールジュから更に125kmのバスでの移動。体調の悪い♀ペンはバスで座っていると幾分か楽なようだ。
ロワール地方はロワール河流域の280km、面積800平方mが世界遺産に登録されている。ここには古城が点在し、その数は100を超えるといわれている。
 その中でも「ロワール渓谷の宝石」といわれる最大で美麗な城がシャンポール城 Chateau de Chambordである。
 この城はフランス王フランソワ1世のために1519年に建てられたものだが、王の居城ではなく、はじめはブローニュの森で狩りをするための小屋が始まりといわれている。その後、歴代のフランス王などが増改築を加えて現在のような華麗な姿になった。
正面から見ると、古典的なイタリアの構造に伝統的なフランス中世の様式を取り入れたフレンチ・ルネサンス様式という、左右対称の構造になっていることが分かる。林立する小塔は殆どが暖炉の煙突で、寒冷な地方らしい眺めである。城にはレオナルド・ダヴィンチが設計したという有名な二重らせん階段を始め、数々の見所があるのだが残念ながら時間がなく、外部からの見学に終わった。
次はアンボワーズ城へ向かう。途中、今夜泊まるホテルがあるトゥールの町を通過、ここにも城館が見えた。バスが走る川沿いには沼地が続き、ところどころに鄙びた民家が建っている。
 日暮れと競争するようにアンボワーズに着いた。ここでもロワール川の手前から城館を見るだけである。この背中を見せて城館を見つめる人物のブロンズ像があった。左手に抱えているのはメドゥーサの首…怪物を退治したギリシャ神話のペルセウスの銅像だが、この顔はレオナルド・ダ・ヴィンチがモデルではないかと言われている。ダ・ヴィンチは1515年冬、フランソワ1世の客人として招かれて城近くのクロ・リュッセ(フランソワ1世が幼年期をすごしたクロー館)に住居を与えられている。
ロワールの川面に優雅な影を落とすアンボワーズ城
この城はもと中世の城砦だったが、15〜16世紀にシャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らの国王たちの居城として最盛期を迎えた。とくにフランソワ1世の時代にはダ・ヴインチが設計に関わって、イタリア・ルネッサンスの建築様式が採用されている。
 次第に暮れなずむアンボワーズ城をあとに、来た道をトゥールまで引き返す。
 ロワール川を染めて夕陽が沈み、やがて驚くほど大きなまん丸に近いお月さまが銀色に輝きだした。町の灯が明るさを増す頃、トゥールに着いた。(続く)

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