2011年 フ ラ ン ス の旅(2)


2011年1月22日(土)
いよいよ待ちに待っていた日が来た。午前8時、ロワールの地方都市・トゥールを発ち、266km離れたモン・サン・ミッシェルへ向かう。今日も良いお天気に恵まれた。モン・サン・ミッシェルに近付くにつれて、緑の牧場に草をはむ牛や羊の姿が次第に多く見られるようになる。この辺りの土は上質のミネラルを多量に含んでいて、羊などの飼育に向いているそうだ。
 遠くに見えていたモン・サン・ミッシェルの姿が次第に大きくなってきた。島に渡る手前のレストランでまず腹拵え。料理は、もちろん名物の「ふわふわオムレツ」である。
モン・サン・ミッシェル Mont Saint-Michel
フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた古い歴史をもつ修道院。
 カトリック教徒の重要な巡礼地のひとつで、1979年に世界遺産に登録されている。また、その優美な姿から世界的に人気の高い観光地にもなっている。かっては満潮になると島に渡る道が消えてしまい、命を失った巡礼者も多かったというが、今は堤防で結ばれて車で安全に渡ることができる。
 堤防の上の海水で濡れた駐車場でバスを降り、島に上陸する。
入口の前哨門をくぐり、続いて「王の門」を通ると左側にオムレツで有名な「プーローラーおばさんのレストラン」が見える。お土産屋やレストランの並ぶグランド・リュー通りである。
 この島最大の見ものは中央にあるベネディクト修道院。修道院の歴史は966年にまで遡るが、何度も崩壊の危機に見舞われ修復が繰り返されてきた。
 かなり急角度の石段が続く。急に♀ペンがしゃがみ込んだ。この時点では、フランスに着いてから食欲を失くして殆ど食事を摂っていないので、力が入らないのかと思っていた。 
しばらく休んでふらつく足を励まし、グループから少し遅れながらも最上層の西テラスに立つ。三方が開け、素晴らしい展望だ。テラスから見下ろす島への堤防の道には、おびただしい数の車が列をなしている。
 モン・サン・ミッシェルは708年、大司教オベールの夢に大天使ミカエルが現れ、「この岩山に聖堂を建てよ」と命じられて礼拝堂を作ったことに始まるとされている。
 尖塔の上には、長い剣を振りかざす黄金のミカエル像が燦然と輝いている。(右は地下礼拝堂にあった聖ミカエル像)
修道院の内部へ入る。最上層の聖堂から下に降りながら見学する。下り一方なのでで、♀ペンもそれほど辛くなさそうで一安心。
 中層は13世紀前半に建築された修道士たちの居住空間で、ラ・メルヴェイユ(驚嘆)と呼ばれている。庭園を囲むように回廊が巡らされ、中庭には井戸も設けられている。

木製の大きな車輪がある部屋があった。荷物の上げ下ろしに使われた中世のリフトである。現在のものは復元されたものだが、昔は車輪の中に人が入って(コマネズミのように回転させて)鉄の鎖を捲き上げたという。車輪も大きいが、」の行方を見下すと目のくらむような高さだ。
石の螺旋階段をくだり、聖堂の下にある地下礼拝堂に来る。隣は遺体の安置室だったそうだ。聖母マリア像と聖ミカエル像がある。
 これで見学を終えて外に出る。階段を下ると城壁の北塔に出る。ここからの展望も素晴らしく、望遠鏡が据えてある。
 城壁の道を歩いて帰る途中には、洒落たレストランなどがあり、その上に修道院が聳えている。名残を惜しみながらモンサンミッセルを後にした。
2011年1月23日  パリ PARIS  最後の訪問地、花の都・パリ。しかし、この日は本当にあたふた続きの一日になってしまった。モン・サン・ミシェルとパリは約370km離れている。昨夜は遅い夕食をレストランでとり、ホテルへ着いたのは22時前だっただ。この日も♀ペンは吐き気がして、ほんの一口しか食事がとれないまま、熟睡できない夜が続いている。
8時、ホテルを出たバスは曇り空の下を走る。パリの建物は屋根がグレーで高さもほぼ同じように統一されている。また個人の住宅はごく稀で、殆どがアパートのような高層住宅である。広告なども見られず、とても整然とした感じの町並みだ。

マドレーヌ寺院の横を通る。聖女マグダラのマリアを守護聖人とするカトリック教会で、コリント式の高さ30mの柱が52本並ぶ古代ギリシア・ローマの神殿を模したネオ・クラシック様式の教会である。マロニエの並木が続くシャンゼリゼ大通りを通り、西端にある凱旋門に向かう。
エトワール凱旋門 Arc de triomphe de l'Etoile
凱旋門という戦勝を記念する門はパリだけでも他に幾つかあるが、単に凱旋門といえばド・ゴール広場にあるこの門を指すほど有名な観光名所である。
 広場をを中心にして12本の通りが放射状に延びていて、地図で見ると星(フランス語でエトワール)のように見えるため、かってここはエトワール広場と呼ばれていた。凱旋門の名称も当時からこう呼ばれている。
エッフェル塔 La tour Eiffel
この塔はフランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。現在の高さは324mで、あとから電波塔が追加されたため建造時より12mほど高くなっている。

Wikipediaによると、大阪の初代通天閣はこのエッフェル塔がモデル(基部は凱旋門)で、またエッフェル塔展望台の周囲は簡単な柵か金網なので今でも飛び下り自殺の名所になっている、などいろいろなエピソードが残されている。
次はルーブル美術館。前に来た時(1979年)には出来ていなかった地下の駐車場から入場する。写真は「逆さのピラミッド」と呼ばれる地下のホール。
 ここから両側にスーヴェニアショップやカフェなどの並ぶ通路を過ぎて、受付を済ませる。♀ペンの具合が良くないので団体チケットを受け取ったあと、館内見学ツァーと離れて集合時間まで二人で見て歩くことにした。二階にある有名な「モナリザ」や「サモトラケのニケ」、無理なら1階の「ミロのヴィーナス」(これは♀ペンも日本に来た展覧会で見ている)だけでも…と階段を登りだすと半地階までも無理な様子だ。
 ♀ペンは「一人で見てきて…」と言うが、とても放ってはおけず一緒に駐車場の方に引き返した。腰をかける場所を探して、1時間半を過ごし館内見学を終えたグループと合流してバスに帰った。
 昼食場所はオペラ座の近くだったが、♀ペンは食べ物を見てもむかつくので水だけ飲んでじっと「我慢の子」。午後は自由行動なので、タクシーで「連泊中のホテルに帰ろうか」と聞いたが、「大分落ち着いたのでオプションに参加したい」というので、バスに乗った。
オペラ座 l'Opéra 正式にはガルニエ宮(Palais Garnier)1875年に完成したパリ国立オペラの公演会場の一つで、外観、内部とも美しい装飾をこらし、当時最大規模の劇場だった。現在では新しいオペラ劇場が誕生している。   

コンコルド広場 Place de la Concorde

もとルイ15世の騎馬像があったのでルイ15世広場と呼ばれたが、フランス革命ではルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われて革命広場と言われた。1830年に正式にコンコルド広場という名称になった。オベリスク(クレオパトラの針)はもとエジプトのルクソール神殿にあったもので、1833年にエジプトから贈られたもの。ただし、エジプトに行ったときには「奪われた」と聞いた。
 午後は、パリから南西に約20km離れたヴェルサイユ宮殿へ。再びエッフェル塔の下からセーヌ河沿いに走って、ブローニュの森の端をかすめて川を渡り,郊外のヴェルサイユの町に入る。
ヴェルサイユ宮殿 Château de Versailles
正面の門をくぐったところで、入場口が広い内庭のはるか向こうに見えるのに、♀ペンは何時になく弱気で「バスで待ってる」と言いだした。座っていたら楽だろうと思って、独りで入場する。
 世界遺産・ヴェルサイユ宮殿はルイ14世が建造したフランス絶対王政を象徴する建造物である。1661年、パリから宮殿を移すために工事を始め、21年後に未完成のまま宮廷が移転、完成したのは1710年でほぼ半世紀を要している。団体の場合は15分ごとに厳格に入場時間が決められている。私たちのグループの入場時間まで30分、それまで自由行動になった。写真は
内庭とファサード
宮殿西側を通り、「噴水庭園」の方へ急いで向かう。
「水の前庭」には、池の四隅に王国の象徴とされる四つの河川を表す美しいブロンズ像が配置されている。
「水の前庭」の西端から見る壮大な庭園。東西に一直線に伸びる軸に南北の軸が直角に交わっている。手前の泉水が「ラトナの噴水」、その下の段にある「アポロンの噴水」から長さ1,650mの大運河が西に伸びている。
 ラトナの噴水のテーマはギリシャ神話「アポロンの少年時代」のエピソード。村人たちに馬鹿にされたアポロンの復讐をするため、母親トーレーが夫(アポロンの父)ゼウスに頼み村人たちを蛙に変えてしまう場面を表している
庭園にはまだまだ見所が多いが、もう自由時間がなくなった。駆け足で集合場所に帰る。
宮殿内部の見学は、フランス語なまりではあるが日本語の達者な中年女性に引率されて巡る。質素な服装で眼鏡をかけ、フランス人というよりちょっぴり意地悪なイギリス老嬢の感じだ。

最初に
「礼拝堂の間」に入る。上層は国王や王族の席、1階はそれ以外の信者の席の二層になっている。天井画はキリストの復活を描いたものである。
 次に「豊穣の間」があり、「ヴィーナスの間」に続く。ローマ皇帝姿のルイ14世像が置いてあり、「神々と強大国を従わせるヴィーナス」の天井画が象徴的である。
「ディアナの間」にはディアナ女神の神話に関する天井画があり、ここにもルイ14世の胸像が置かれている。「マルスの間」の次の「アポロンの間」の窓からは水の前庭が見える。息苦しいほどのきらびやかな部屋を見続けた後だけに、外の緑が目を休めてくれる上に、もともと前庭が上の部屋から眺めることを想定して作られているだけに、ここからの眺めはなかなかのものだった。
 
「戦争の間」のメダイヨン(レリーフ)にはオランダとの戦争でフランス軍がライン川を渡ったときのルイ14世が描かれている。
有名な「鏡の間」(鏡の回廊)に入る。ここは儀式や外国使節の接見に使われた場所で、24個のシャンデリアが下がっている。天井画はルイ14世の冶世を讃えたものである。また、この鏡の間では王室の結婚式の時などに大舞踏会が催された。多くの銀製品が飾られていたが、王の晩年に戦費調達のために使われたとか…。

「牛目の間」(天井と扉の間の窓がウシの目に似ている)にはルイ14世の家族の肖像画がある。現実の姿ではなくて、時間を超えて何世代もが勢ぞろいして描かれている。
プライベートな部分に入る。「王の寝室」でルイ14世は眠り、最後(1715年)はここで息を引き取った。王の寝室に続く部屋は「閣議の間」と呼ばれ、重要な会議がここで開かれたという。「平和の間」は王の権威によってフランスの平和がもたらされたことを誇示している。「王妃の寝室」で大勢の人に見守られて、お世継ぎが生まれた。男性も大勢混じってお産を見守ったのだから王妃もたいへんだ。「大会食の間」には「マリー・アントワネットと3人の子供たち」の姿が描かれた大きな絵がある。
 「戴冠の間」ではナポレオンの戴冠式の模様が描かれた大きな絵画が飾られている。最後にフランスと他国の戦争を描いた「戦史の間」があり、これで約2時間の見学を終えてバスに帰った。この間、♀ペンはバスでうとうとしていたようだ。同じ道を引き返して、16時過ぎ、エッフェル塔の近くにあるセーヌ川の船着き場に着く。
予約してある船の時間まで、暖かい駐車場のバスの中で待機する。散歩する恋人たち、ランニングする若者、スケートボードの少年…いろんな人が行き交う。17時過ぎ、いよいよ乗船の時間になってバスを降り、船着き場の方に歩き出してすぐ、♀ペンがふらふらと倒れ掛かる。幸い近くにいた人たちの親切にも助けられてバスに帰り、グループの人たちがクルーズの間、横になっていた。
 やがてエッフェル塔に灯りがともり…18時には美しいシャンペンライトに輝き始めた。
 出港後1時間ほどで帰ってきた人たちや自由行動していた人たちと合流して、夕食のレストランへ。この日はエスカルゴ料理だったが、♀ペンは一つだけ味見しただけで、残りは変愚院のお腹に収まった。夜のパリの街を眺めながらホテルに帰り、荷物の整理もそこそこに眠れぬ夜を過ごした。

24日。7時ホテルを出て空港に向かい、長い長い空の旅が始まる。あたふたハラハラは空港から機内、そして関空に着くまで続いた。

25日、何とか関空に着いたが、家には帰れず即日手術、入院する羽目になった。急性胃潰瘍の出血による貧血だった。退院後は嘘のように元気になったが、一時はどうなるかと思うほどだった。せっかくの楽しい旅行中にご迷惑をおかけし、また親切にしてくださった同じツァーの方々、添乗員さん、その他お世話をかけた皆様に改めてお礼を申し上げて、この旅行記を終わる。

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