矢田丘陵 周辺のみどころ



大和民俗公園


広大な敷地内に大和の代表的な民家を移築復元した民家集落(9軒11棟)があり、園内の奈良県立民俗博物館では昔の暮らしを中心にした大和の歴史が学べる。園内には自然林が残り、また梅林や菖蒲園をはじめ四季折々の花や緑を楽しむことが出来る。


公園入口

旧木村家住宅

旧前坊家住宅

菖蒲園


矢田座久志玉比古神社 (やたにいますくしたまひこじんじゃ)

矢田小学校の近くにある「矢田の大宮」(矢田座久志玉比古神社)の楼門には、大きなプロペラがついています。戦争中に奉納されたものだそうですが、それにはこんないわれがあります。
 この神社にお祭りしてある神様、ニギハヤヒノミコトはいつも「天の磐船」に乗って大空を駆けめぐっておられました。あるとき、天から降りてお住みになる所を決めようと天神から頂いたアメノハバ矢を三本射られたところ、矢はこの矢田の地に落ちました。神社は二つ目の矢が落ちたところに建っているので、一名「矢落明神」とも呼ばれています。神社の北には「三の矢塚」南には「一の矢塚」があります。
 天の磐船は現在で言えば飛行機か宇宙船でしょうか?それで、このお宮さんには航空関係の人のお参りも多いそうです。  (一人すまいのお年寄りを訪問するボランティア「あゆみの会」用に作った文章です。出典「日本書紀」他)


楼門のプロペラ

二の矢塚



矢田寺(金剛山寺・こんごうせんじ)



現在はアジサイ寺として名高いが、古くから「矢田の地蔵さん」として親しまれてきた。天武天皇の勅願寺で、開山は知通僧正。かっては多くの堂塔伽藍があった。本尊は初め十一面観音、平安以降は地蔵菩薩。「矢田形」と呼ばれる珍しい様式で、錫杖を持たず右手は阿弥陀仏の印を結ぶ。境内には「味噌嘗め地蔵」「見送り地蔵」をはじめ、古い石仏が数多く残されている。近年、裏山にあった矢田四国巡拝道が近辺の篤志家によって復興されている。


矢田寺山門

春の本堂

味噌嘗め地蔵

見送り地蔵

矢田四国巡拝道

さらに興味のある方はこちらも…
矢田地蔵のはなし(閻魔王と満米上人  見送り地蔵  味噌嘗め地蔵) 
大和名所図会の矢田寺図   


松尾山と松尾寺

松尾山は標高 315m。 矢田丘陵南端、奈良県大和郡山市と生駒郡斑鳩町の境にある。山の名は尾根に松の木が多いことに由来したという説があるが確かにアカマツ林が目立つ。他にネズやモチツツジも多い。
 西山腹に建つ松尾寺について、『和州旧跡幽考』に次の記述がある。「延喜式では西松尾寺、又山号は補陀洛山。此山のかたち補陀洛山に似たりとて舎人親王の御建立ましまして、親王みづからきざみ給ひし十一面観自在の像をすへ給ひしなり」。本尊は別の千手観音立像で室町時代のものである。現在も「日本最古の厄除け観音」として特に二月の初午の日には参詣者が多い。
 山頂は寺の10分ほど上で、NHKと民放TVの無人放送局と電波塔が立つ。囲いの南西隅に三角点があるが、展望は寺境内の他、大和平野が一望できる国見台(稜線を北へ約10分)からの方が優れている。山頂北側の松尾湿原はハッチョウトンボやモウセンゴケなど、貴重な動植物の生育地である。


(1)

(2)

(1) 大和名所図会より
(2) 矢田山見晴らし展望台より望む松尾山(鉄塔の見える山)、背後は葛城山




矢田山

標高340m
 奈良県大和郡山市と生駒市にまたがる。平群谷を挟み信貴・生駒山地と平行して南北に連なる矢田丘陵中、一番高いピークである。
 矢田の地名は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天からの降臨に先立って天磐船(アマノイワフネ)から射た矢が落ちた所という伝承に基づき、山麓に一之矢塚、三之矢塚が、矢田坐久志玉比古神社境内に二之矢塚がある。この辺りは万葉の「八田の野」であり、また『古事記』には天智天皇が「八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)を恋ひたまひて」贈った歌とその返歌が記されている。
 近年、矢田山周辺は矢田自然公園として整備され、尾根筋には何カ所か展望休憩所が設けられていて、奈良盆地とそれを囲む山々を一望することができる。


矢田山三角点

まほろば見晴らし
展望台

矢田山頂上展望台

展望台から松尾山、
遠く葛城山

紅葉の松尾山

見晴らし所から郡山市街。後に貝ガ平山

展望台から生駒山

展望台から若草山山焼きを見る


子どもの森周辺

県立矢田自然公園のうち「自然にふれあいながら森と遊べるエリア」として、峠池西側の芝生広場を中心に矢田山遊びの森・体験ゾーンの整備が続いている。子ども交流館、野外料理体験館、椎茸銀行などが建設され、三つの自然研究路(観察コース)も設けられている。


春にはこんな光景も

自然研究路解説板



滝寺廃寺

磨崖仏は、細粒室花崗片磨岩の岩肌に彫刻されている。内部の詳細はあまり明らかにはできないが、薄肉彫の堂塔がいくつか建ち並んでいるのが認められる中に、仏、菩薩等を浮き彫りにした仏龕が五面配され、なかなか壮大な構図のようである。仏龕はそれぞれ仏殿の内部におさまるもので、中央上部のものは仏殿が大きく、屋根上に宝形らしいものがみられる。また左端のものの上には風鐸のついた屋根がある。

仏龕の彫刻としては、中央上部のそれは、三尊仏が二組並んで、その上方に垂飾のついた帳帷が線刻されており、また向かって右方の中尊の光背には千体仏があらわされているなど、見るべき特色がある。他の仏龕も三尊仏の中尊が裳懸座に坐す形式や、菩薩形立像らしきものがある。

この磨崖仏は、作風から見て八世紀に入ってからのものと考えられ、我が国でも最も古い磨崖仏の一つである。なお滝寺については、草創沿革については詳かではないが、付近からは奈良時代の瓦の出土が認められる。(堂前の説明板より)





三の矢塚

かっては矢田山麓の田圃の中にぽつんと立つ小さな塚だった。今は前市長の筆になる「邪馬台国想定地」の大きな石碑が立ち、以前の塚は囲いの隅に追いやられた格好だ。前の説明板に曰わく。
 「伝承邪馬台国想定地(三の塚)
 旧事本記によると古代豪族物部氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)が「天神の詔(みことのり)をうけ天磐船(あまのいわふね)に乗りて大虚空(そら)をかけめぐり、この郷(さと)を巡りて天下ります。則ち虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)というは是これか」とあります。
 この時天神より「天の羽々矢(はばや)」「天の羽々弓」を賜り祝(ことほぎ)て三本の矢を射放ちてその落ちた所に宮居せんとのたまいしと伝えられている。この三の矢塚は三番目の矢の落ちた所で土地の人々も昔からこの土地を「みやどこ」(宮所)と呼んでいる。二の矢は五〇〇米南の矢田坐久志玉比古神社の境内に磐船の破片といわれる磐座のあるところ、さらに五〇〇米余り南方には今も小字「一の矢」と呼ばれている土地がある。
 物部氏の祖神神饒速日命を祭神とする矢田明神社を中心に南方はるか三輪山、大和三山などを一望できるこの要害の地こそ、物部王朝邪馬台国説による、女王卑弥呼の宮居した伝承地にふさわしいと考えられる」
 この物部王朝邪馬台国説というのは、鳥越健三郎・大阪教育大名誉教授が「大いなる邪馬台国」という著書の中で述べているもので、ニギハヤヒノミコト降臨神話は物部氏の部族移動の神話的表現とする。その根拠として「物部氏の大和入りは邪馬台国建国の時期に重なる」というのだが…
 ともあれ、今やわが大和郡山市では毎年「卑弥呼コンテスト」まで開かれている。
 

元の三の矢塚

新しい石碑


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