九寨溝・黄龍と楽山大仏の旅   (1)

中国四川省の世界遺産を中心に巡る旅の一日目、2010年8月25日の関空出発は予定より2時間30分も遅れて19時の離陸となった。大連での乗り継ぎ時間は30分短縮されたが、成都着は23時40分。念入りな入国審査、なかなか出てこない荷物受け取りのあと、現地ガイドの蒲(ホ)さんの出迎えを受けてバスに乗ったのは0時半近くになった。30分ほど離れたホテルに向かうバスの窓から見る深夜の成都は、ビルに煌々と灯りがともり、華やかなネオンも見える大都会である。ホテル到着は翌26日の午前1時前。明日の準備をすると就寝は2時前になった。

2010年8月26日  成都
成都は2,300年前の蜀の時代から都として栄え、四川盆地の要所として歴史の舞台となってきたところ。現代も各所に古い歴史の香りを残しながら、1,000万(うち市街地600万人)の人口を擁する大都会である。私たちのホテル「天府陽光酒店」は省都・成都の中心部のやや東寄りにあり、玉沙路という東西に走る道路に面している。
この街を訪れるのは2001年の大姑娘山(5,025m)登頂のとき、2006年にラサを訪ねた時以来、三度目になるが、その変貌ぶりは目を見張るばかりである。市民の通勤の足は自転車からバイク、さらにマイカーに変わっている。ハイウェイが縦横に伸び、インターチェンジが美しい曲線を描き、走る車もトヨタ、ニッサン、スズキ、BMW、アウディやベンツなどの外車が中国国産車より幅を利かせ、しかも殆どが真新しいピカピカの車である。バスもカラフルで二階バスも走っている。
今回の観光は、成都市の北の郊外にある「成都大熊猫繁育研究基地」から始まった。基地入口前には巨大パンダ像があり、台座に500という数字が入っているのは国連の環境保護部門最高賞「ワールドランキング500選」を受けたことを表している。ここで貰った美しいパンフレットの冒頭には「尽覧熊猫風景感受生命奇蹟」(パンダの生態を通じて、生命の神秘を感じよう)と記されている。
園内の広さは100ヘクタールもあり、緩やかに起伏する緑の丘、点在する鏡のような碧い池(璧水如鏡)、竹林や森林の中を遊歩道が巡っている。この日は曇り空で湿度が高く、しばらく歩くと汗が滴り落ちてきた。
ゆるい登り坂で「小熊猫一号活動場」に来た。小熊猫はレッサーパンダのことで、これは日本の動物園でもお馴染みで、今は廃園になった「あやめ池遊園地」でも人気ものだった。

「小熊猫二号活動場」のレッサーパンダと合わせて、ここにはこちらには15頭いるそうで、広い運動場内を自由に歩きまわっている。ジャイアンツパンダに比べると人気が低いが、なかなか可愛い動物で見飽きない。
大熊猫(ジャイアント・パンダ)が最初に発見されたのは四川省の宝興県である。パンダは中国特有の野生動物で、チベット高原東部と四川盆地西側の周辺に、その大部分が生息している。しかし野生パンダが800頭まで減少したため、臥龍にパンダ保護機構「臥龍大熊猫研究中心」とパンダ繁殖機構の「成都大熊猫繁育研究基地」・「雅安碧峰峡パンダ繁殖研究中心」が開設された。成都研究基地は1990年にオープンし、現在42頭のパンダが暮らしている。
レッサーパンダを見た後、ゆるい坂を下って「幼体飼育区」に来ました。ガイドの蒲さんによると「パンダの幼稚園」である。涼しい朝のうちが元気がよい筈なのだが、30℃を超す今年の暑さにぐったりしているようだった。「亜成体飼育区」の小、中学生パンダも暑さで元気なく寝そべっていた。
「熊猫太陽産房」は半ドーナツ型の建物の半分が通路で、内側半分がガラスで覆われた分娩室になっている。ここに、まだ生まれて間もないパンダの赤ちゃんが二匹展示されていた。まだ毛も生え揃わずネズミの仔みたいである。日本では写真以外では見られない貴重な体験だった。隣の飼育室には、生後一カ月くらいの赤ちゃん。こちらはパンダの特徴の白黒模様が、ちゃんとついていた。もちろん、館内は厳重に管理されていて撮影はできない。
最後に「成体飼育区」に来る。ここの3頭の大人パンダは元気いっぱい!

ちょうど「餌やりタイム」だった。餌は長い棒の先に付けたリンゴである。ここでも身体の大きい、力の強い奴が勝ちで、弱い方は抑えつけられて、なかなかご馳走にありつけない。やっと餌を貰えても可哀想に二頭に抑えられながら食べていた。

放し飼いにされたクジャクなどを見ながら出口へ歩き、記念品ショップでしばらく買い物をした後、次は武侯祠へ向かう。
午後は「武侯祠」に行く。「武侯」とは、三国志で名高い劉備の軍師「諸葛亮(孔明)」に死後贈られた贈名である。成都はかつて彼が長年働いた都市で、そして5回も魏国を北伐するために出発した都市でもある。当初はここより西に離れた所に「武侯祠」があった。ここは、もともと劉備の墓と廟があったところだが、明の時代に「君臣を合祀するべきだ」という考えによって、合併されて現在の形になった。したがって正門の上の字は、劉備玄徳を祭る「漢昭烈廟」で、これが正式な名称である。
中門をくぐる。「明良千古」の「明」は劉備の賢明、「良」は諸葛孔明の忠誠を、「千古」は「後世まで伝える」という意味で、明の字の「偏」が「目」になっているのは劉備の賢明さを強調したものだろうか?

中庭を囲む回廊に、文官と武官たちの彫像が立ち並んでいる。この写真の右が「趙雲子龍」、左は「孫乾」。超雲は「蜀国勇猛武将代表人」として特に人気が高いようだ。
この廟の主人公「蜀王・劉備玄徳」
黄巾の乱の鎮定で名を挙げ、そのご各地に転戦。「三国志演義」では主人公で、関羽、張飛の三人と義兄弟の桃園で盟を結び活躍する。諸葛亮の天下三分の計により、蜀の地を得て初代皇帝となった。

傍らに関羽雲長と張飛翼徳の彫像もある。次々と廟にお参りする人が後を絶たないことで、その人気のほどが分かる。
「武侯祠」入口をくぐると先年の四川大地震の影響が残り、内部でまだ補修作業が続いていた。
劉備が「三顧の礼」を持って迎えた名軍師・諸葛亮(字は公明)。鵞鳥の扇子を持つ智者姿が中国人のもっとも馴染みの諸葛孔明へのイメージである。
赤い塀と煉瓦の道が、劉備の墓へ続いている。赤い色は魔よけで、竹の緑と美しいコントラストを見せている。劉備玄徳の墓と伝えられる塚は高さ12m、周囲180m。劉備が病死した白帝城は三峡付近なので、ここ成都から1000キロも離れている。果たして彼の遺体がここへ運ばれて埋蔵されたかは疑問で、一説には衣服だけが納められているという。発掘が許されないので、真実は謎に包まれたままである。
18時40分、成都を離れて九寨黄龍空港へ向かう。1時間足らずのフライトで降り立った空港は標高3448mのところにあり、空気が薄いので離陸に必要な揚力を得るために、3,200mもの長大な滑走路が設けられている。ともあれ無事に着陸して、バスで真っ暗な曲がりくねった道を下る。途中、川主寺(地名)で夕食。九寨溝市のホテルへ着いたのは今夜も23時を過ぎていた。
九寨溝喜来登国際大酒店(シェラトン九寨溝リゾート)は、九賽黄龍空港から約80km離れた海抜1800メートルのところに立つ、五つ星ホテルである。

ホテル敷地内に座席数523の劇場を持ち、民族舞踏ショーなどを見ることができる。劇場を囲むように半円形の広場があり、十二支の動物を象ったトーテムポール風の彫像が並んでいる。一つ一つ見て行くとなかなか細かい、見事な彫像である。
8月27日  九寨溝
8時、ホテル出発。九寨溝風景区入口までは1.5kmで、あっという間に「溝口」に着いた。大きなショッピングセンターとチケット売り場があり、少し離れたところに入場ゲートがある。 
「九寨溝」の名は、この谷(溝)にチベット人の村(山寨)が9つあることから付けられたもので、谷は白水溝上流の白河の支流で、下流から見るとY字形をした三つの谷からなっている。(地図の下が北、従って正しい地図では逆Y字)。
 Yの字の左の画が則査窪溝、右が日則溝、下の画が樹正溝と呼ばれ、入口から最高所の「長海」までは33qほどある。
三つの溝に沿って遊歩道と車道が設けられているが、車はすべて専用の「九寨溝緑色旅遊観光車」を利用しなければならない。
すべて天然ガス利用の低公害型バスだが、私たちはグループでの貸切り車となった。



九寨溝・黄龍・楽山大仏の旅(2)へ続く

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