アユタヤとバンコクの旅

タイにはもう何回か行っていますが、いつもプーケットとその周辺ばかりで、今度のバンコクとアユタヤは初めての観光旅行です。
2009年 08月 26日(水)バンコク郊外のスワンナプーム空港に着いたのは、昨夜22時35分。H社のパックツアー・グループは予想したより多く、24名。最高齢者は私でした。シャワーを浴びて、ベッドに入ったのは1時を過ぎていたので、今日の出発はゆっくりしています。10時、バスでアユタヤに向け出発。14世紀中頃から18世紀までアユタヤ王国の都として、国際的にも有名だったところで、山田長政の活躍の場として知られています。バンコクから北へ76キロ、立派な高速道路が通じていて約1時間で走ります。バスの中は肌寒さを感じるほど冷房が利いていますが、車を降りたとたんに凄い暑さが全身を押し包みます。現地の女性ガイドの話しでは今日は38℃まで上がるということです。

王室の夏の離宮・バンパイン宮殿を見学します。
門の周囲には白と青の布が巻かれ、国旗と並んで青い旗が立っています。
 タイでは生まれた日が何曜日かを大事にしますが、青い色は王妃様の生まれた「金曜日」の色だそうです。
 今月は王妃の生まれた月(8月12日生まれ)なので、どこへ行っても王妃の顔写真と青い色だらけでした。
門を入ると大きな人工池を巡らしたなかに、広大で美しい庭園が拡がり、その中にヨーロッパ、中国、タイと様々な建築様式の建物が散在しています。
 真っ直ぐに進むと、まずこの 
Haem Montien Devaraj (神王の黄金宮殿) に出会います。
 入口で貰った英文パンフレットによると、石造のクメール様式のプラサット(トウモロコシ型の神や王の住み処を象った建築物)で、かっての王が黄金で作ったもののミニチュアということです。
菩提樹の樹が涼しい影を作っていました。
少し進んだところから池に面した三つの建物が見えます。
 左のネオ・クラシック風建築は 
Phra Thinang Varobhas Bimarn  プラ・ティナン・ヴァロハス・ビマーン。
 現在まで続くチャクリー王朝のチュラロンコーン王(ラマ5世)が1876年に建てたもので、居室および外国使節などの謁見に使われていました。
謁見の間にはタイの歴史の油絵が掛けられているということですが、見学はできません。
 右手の白亜の建物は Devaraj-Kunlai Gateとパンフレットにありますが、二つの池の間にあるので水門の役割をしているのでしょうか。
中央、人工池の中に立つのは
Phra Thinang Aisawan Thiphya-art 
プラ・ティナン・アイサワン・ティッパアト。王が涼をとったところです。
 これはぐるりと廻って正面から見た写真で、オレンジと緑の屋根のタイ建築様式で、十字型にポーチが張り出しています。
 ここまでが外廷で、次に内廷へ進みます。
公的な性格を持つ外廷に対して、内廷は王と親族のためのプライベートな場所です。
 この塔は
Phra Thinang Withun thasana (Ho Withun thasana)プラ・ティナン・ウィトゥン・タサナー
 小島にたつ見晴台で、宮廷の回りを展望するため、1881年、ラマ5世によって建てられたもの。今は一般の観光客も登ることができます。

下を鮮やかなオレンジ色の僧衣をまとった僧侶が歩いています。
ゾウの形に整えられた植え込みが立つ、緑の芝生の横を通ります。植え込みの動物には、他もシカやウマなど、中にはヘビまであります。
 緑のウサギたちの視線の先に見えるのは…。
Sabakarn Rajaprayoon (サバカーン・ラジャプラヨーン?)。
 1876年、ラマ5世の兄弟が建てた二階建ての植民地風建築物で、現在では恒久的にバーンパイン離宮での夏の別荘として使われています。
Phra Thinang Wehart Chamrun
プラ・ティナン・ウェーハート・チャムルーン。
Phra Thinang =公邸、Wehart Chamrun=天の光 の意味。
 中国商工会議所と同じ二階建ての建物で、1889年、チユラロンコーン王(ラマ5世)に贈られました。靴を脱いで中に入ると、その豪華さに驚きます。 
中国式の建物の床は鳥や花木が描かれたタイル敷きで、窓枠には精細な透かし彫りが施され、各部屋には黒檀の家具や美しい椅子が置かれ、伊万里焼の壺などが飾られています。残念ながら、内部は撮影禁止でした。
庭園内にはプーメリアやブーゲンビリア始め様々な花が咲いています。園内の各所に衛兵詰め所があり、ちょうど衛兵たちが立番交代のために行進しているのに出会いました。バーンパイン宮殿は一般に公開されていますが、考えてみれば現王室の所有物なのです。
バーンパインからアユタヤまではバスで20分ほど。この大きなバスに乗客は28人で、実にゆったりしています。
 アユタヤはチャオプラヤー川とその支流に囲まれた島のような地形ですが、現在は美しい古代都市の中に多くの遺跡が残されています。ランチビュッフェで腹ごしらえをすませ、遺跡巡りへ。
アユタヤは、タイを初めて統一したスコータイ王朝を継いだアユタヤ王朝が1350〜1767年まで417年間、都を置いたところです。
 この間、35人の王が統治し、17世紀には近隣諸国はもとより中国、ペルシャ、西欧とまで外交通商関係を結び、アユタヤは国際的な貿易の地として栄華を誇りました。
 しかし、度重なる隣国ビルマとの戦いで、1767年ついにアユタヤ王朝は滅亡。都はビルマ軍に徹底的に破壊されました。
 アユタヤの各所にはかっての都の跡が廃墟となって残っています。
ここはその一つ Wat Phra Mahathatです。     14世紀末に二代目あるいは三代目の王様が建てた寺院跡ですが、崩れた煉瓦台の上に頭部を切り取られたり、脚の部分だけが残された仏像が並んでいて、異様な光景です。
よく写真や映像で目にする、頭部が木の根に取り込まれた仏像です。
 なぜこうなったかには分からないそうですが、不気味な雰囲気が漂います。
後代に補修された仏塔からは木が生えて、いかにも 廃墟という感じです。
 遠くに見える高い仏塔(メイン・プラーン)は20世紀の初めに崩れて、その後建て直されたものです。
 その際発見された宝物は現在、国立博物館に保存されています。
 長い盛衰の歴史を眺めてこられた穏やかなお顔の仏様が、ただ一体だけ静かに座っておられました。その前でしばらく手を合わせて、ワットを後にしました。
ワット・プラ・マハタートの荒涼とした寺院跡では、カンボジアのアンコール遺跡とはまた異なる、強烈なインパクトを受けました。次はその心を癒すようなゾウ乗り体験です。
 ワット・プラ・マハタートの外周道路を少し走ると、ゾウ乗り場があります。10数頭のゾウが次々と観光客を乗せて行き来しています。
 切符売り場の前には小象と、かなり年を食った大ゾウがいて、片足をあげて座ったり、後ろ足で立ったりの芸を見せます。「2ポーズ20バーツ」のモデル・ゾウです。私たちの女性ガイドが大ゾウにジュースをあげました。上手に飲み終わると脚で缶を踏み潰して鼻で返します。
梯子を登って台の上からゾウの背中に乗ります。
 ノッシ、ノッシと歩き出してから、♀ペンが象使いのおじさんに「このゾウ何歳?」と日本語で聞きました。
 ちゃんと「23歳」と答えが返ってきたのにはビックリ。「日本語できるの」と聞くと「ちょっとだけね」と笑っています。
 さっき車で来た道を渡って、池の畔の撮影スポットで記念撮影。他の象使いにカメラを渡すとシャッターを押してくれます。
 もとの道を引き返して約10分間のエレファント・ライド終了。私たちを下ろすと、すぐに次のお客を乗せて池に向かって行きました。
ゾウ乗り体験のあと、ふたたびアユタヤ遺跡を歩きます。

Viharn Phra Mongkon Bopit
このヴィハーン・プラ・モンコン・ボピットもビルマ軍に破壊されていたものをラマ5世が再建したものです。
 中には金色に輝くブロンズ製の大仏が安置されています。像の高さは12mあり、タイのブロンズ像では最大級のものです。
このワットのすぐ東側は、ラーマティポティーT世(ウー・トーン王)が、アユタヤを建国した折に宮殿をおいた所です。
 歴代の王が増築を重ねて、アユタヤの中心地として栄えましたが、ここも1767年の戦いで、ビルマ軍のために跡形もなく破壊され、今は広大な敷地から栄華の夢を偲ぶばかりです。
 
ワット・プラ・シー・サンペットです。
Wat Phra Sri sanphet
ここは王宮の付属寺院で、黄金に覆われた高さ16mの釈迦立像があったと伝えられています。
 アユタヤ陥落のとき、ビルマ軍の放った火で寺院も仏像も焼け落ちてしまい、この三つのチェディ(仏塔)だけが残されています。それぞれのチェディには、アユタヤ王朝中期(15世紀)の三代の王の遺骨が祀られています。
 急勾配の石段で入口まで登ることができます。私たちも中央のチェディに登って、高みから遺跡を見渡しました。
Wat Lokaya Sutha  ワット・ロカヤ・スタ
夕暮れ迫る空の下、高さ5m、全長28mの巨大釈迦涅槃像が大地に横たわっています。
 静かに生を終え涅槃に入る安らかなシャカの寝姿です。手枕にしている左肘の辺りが金色に光っています。
参詣者が指の爪ほどの金箔を一枚一枚張り付けた痕です。
お詣りの用具は、この金箔1枚と赤い線香、そしてハスの花の蕾がセットになっていて、若い女性が10バーツで売りに来ます。
 手前に小さな礼拝堂があり、そこで線香に火を付けて立てます。花はここに供えるのかと思うと、さにあらず線香の横の花瓶に立てます。その後ここへ連れてきて、手を添えて金箔の張り方を教えてくれます。
 お詣りを済ませてバスに帰り、アユタヤの町を南に少し走ると、山田長政の活躍した時代の「日本人町」の跡を通ります。車窓から記念館(歴史研究センター)の日の丸が見えたと思うと、あっという間に走り過ぎました。
その近くのレストランで、コンロで炊いて小鉢で運ばれる名ばかりのタイスキで夕食。
 バンコクへ帰る途中、ライトアップされた遺跡を見に行きます。レストランを出る頃から雨が降り出しました。傘の用意をしていましたが、遺跡に着くと待っていたように雨が上がりました。
 明るさの残る空に、金色に輝く遺跡が浮かび上がります。ときどき稲光がはためき大きな雷音が響いて、迫力満点の舞台装置です。急いでバスに帰るやいなや、沛然と音を立ててスコールがやってきました。連泊のバンコクの宿に向けて、アユタヤを後にしました。

変愚院22海外の旅       バンコクとアユタヤの旅(2)へ         ペンギン夫婦お山歩日記
inserted by FC2 system